聖書研究
— 救いについて(16) —
野澤 睦雄
「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。」
(ヤコブ 2:19)
2.救いに関して知っておくべきこと
・信仰その知識の領域と霊的領域
バプテスマのヨハネもイエスも宣教を始めたとき、最初のことばは「悔い改めなさい、<神の国><天の国>が近づいたから」でした(マタイ3:2,4:17)。
救いは神の国、つまり霊の世界の事柄なのです。私たちはこの世=物質の世界に生きています。
人は「霊」「魂(心)」「体」から成っていて、それがひとつの有機体(結び合わされて一つとなっていること)となっています(テサロニケⅠ 5:23)。
魂(心)すなわち「知情意」と呼ばれている精神活動の「この世」に属ずる部分は明らかに頭脳の産物で、この世に属するものです。信じ救われているお互いには、その精神活動が霊の世界に属する部分とこの世に属する部分が混じり合って一体となっていて区別が難しいのです。
ですから、それを・・自分の心を、また隣人の心をも・・よく観察して霊の世界の事柄と、この世(必ずしも神に反逆する世だけでなく自然の世界)の事柄とを見分ける必要があります。
先に述べたことの繰り返しになりますが、「認罪」は自分が犯した罪、「私はこの罪、盗んだ、偽りを言った、意地悪をした、等々・・を行った」ことを知っているだけでは、救いにいたるには不足です。「私は罪を犯しました。」と自分を罪に定め、それを裁くことのできる神の権威を認めていることが必要です。
イエスと一緒に十字架につけられたひとのひとりを考えて見ましょう。彼は「私たちは罪を犯したから、こうなっているのは当然だ」(ルカ 23:41)といいました。これは確かな認罪の証拠です。
そして「イエスよ。あなたが御国の位に着かれたとき、私を思い出してください。」と続けました。彼はイエスが、彼らが待ち望んだ、救い主、神の子、王であることをこのことばのなかで告白しています。彼はイエスが自分を裁くことができる方、その権威を認め、憐れみを求めました。
悔い改めが知識だけでは足らないのと同様に、救いに至る信仰も知識だけでは足らないのです。冒頭に掲げたヤコブのことばがそれを言い当てています。
イエスは神のみ子、救い主であって、私の罪の身代わりとなって死なれた。彼は私を救うことがおできになる、という知識をもち、そうだ、その通りだと同意の思いを持ったとします。悔い改めることなく「キリストを信じますか」「はい信じます」との答えを受けて教会に加えてしまうことは、救いたいと思っている働き人にとって誘惑でしょう。
霊的領域の救いの信仰は、真の悔い改めが一緒にある事が必要です。
真の「悔い改め」がなされるとき、知識だけでなく「霊の世界の信仰」を持つことができ、その人は救われます。十字架上の罪人がその好例です。