同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 祖父の救い —

石井 ミワ

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書 43:4)   

 私は子どもの頃、おじいさんとおばあさんと同居していました。
おじいさんは家の前の畑でいろいろな野菜を作っていて、その野菜たちがそれはそれは美味しかったのを覚えています。
 私はこのおじいさんが大好きだったのですが、そのひととなりは、周りから「石橋を叩いて渡らない」と言われていたくらい、慎重で、かつ穏やかな人でした。
おじいさんは仏教徒で、本家のお兄さんが戦争で亡くなっていたこともあり、本家のお墓を守り、お寺の檀家もしていたようです。
 おばあさんはクリスチャンでしたし、両親は私が小学生の時に洗礼を受けましたから、私の実家は仏壇と神棚があるけれど日曜日はおじいさん以外全員が教会に行くという不思議な家庭でした。
 おじいさんは普段は教会に誘っても全然行くそぶりすら見せませんでしたが、年に1回、クリスマス会のときだけは教会に行って、詩吟を一節歌うのが恒例でした。
 おばあさんが亡くなったあとも、なかなか教会に行くとは言わなかったですし、病に倒れて手術をし、脳腫瘍だったこともあって、私は「あぁ、おじいさんはこのまま死んでしまうかもしれない」と思いました。
 手術のあとしばらくして、日曜日に一時帰宅が許された時に「俺は教会に行く」と急に言いましたので、びっくりしつつも一緒に教会に行き、私はおじいさんの隣に座りました。
 礼拝がはじまって、牧師から「今日は洗礼式もありますから」と冒頭で言われまして、「誰の洗礼式、、、?」と思いつつも隣で泣きながら礼拝のメッセージを聞いているおじいさんを見て、もしかして、と思ったらそのもしかしてでした。
 洗礼を受けたおじいさんは、じつに晴れ晴れとした顔で、「ばあさんと一緒のところに」と言っていたことを思い出します。
本家との間でも、ひとつひとつ解決の道が与えられて、ついに私の家から仏壇と神棚は無くなりました。
 おばあさんは、おじいさんのためにお祈りしていましたから、天国でそれはそれは喜んだだろうと思います。  おばあさんは、生きているうちにおじいさんの救いという願いが叶うところを見ることはありませんでしたが、ちゃんと神様はその願いを聞き届けてくださいました。
ほどなくして、おじいさんは天に召されました。社交ダンスが趣味でしたから、天国でおばあさんと踊ってるんじゃないかなぁと思います。
 イエス・キリストが命をかけてくださったその愛は、2000年経った今でも変わらずに私たちに注がれています。
 私の実家の家庭においてもいろいろな問題がありました。
 弱さを抱え、みことばに聞かず、人の助言を聞くこともなく、ただ人を羨んで「神様に愛される人はああいう人だよね。私にはそんな資格ないよー」と最後まで神様を退けていたのは、他ならぬ私自身でした。
しかし、神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と語ってくださいました。
 それがわかるようになって、救いを受け入れてから、「おじいさんのことも、おばあさんのことも、両親も、弟たちも、最後に私のような者でさえも、イエス様は変わらずに同じ愛を注いでくださって、救ってくださったのだ」ということ、「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」という御言葉の通りに、イエス・キリストはその命をかけて私たち家族を贖ってくださったのだということがわかりました。

 私は、この神様の愛に応えていける者になりたいとねがいました。
 尚、祈りつつ、私に真実に答えてくださる神様に、私もきちんとお応えすることができるように、真実に生きる者でありたいと願っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)