同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 賜物を生かす喜び —

茂永 頼子

「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(ペテロⅠ 4:10)   

 10月から礼拝のピアノの奏楽の働きを担わせていただいています。私がピアノを始めたきっかけは両親が、私に礼拝の奏楽を担う者になってほしいという願いからでした。6歳から 習い始め、約15年になります。
 始めた当初は私自身、礼拝でピアノを弾きたいというような明確な目標はなく、ただ習いたいと思っていました。
私が通っているピアノ教室の先生はスパルタ指導で有名で、今はお年を召されだいぶ優しくなりましたが、昔はレッスン中に泣き出す子が多くいました。ある時は、前の時間のレッスンが終わるのを外で待っていると、怒鳴り声が聞こえてきて、その後に入っていく時にビクビクしていたこともあります。私も小学生の頃は度々しごかれました。ただ人前で泣くのが嫌で、涙をこらえながらレッスンを受けたことが何度もあります。辛すぎて帰りの車で泣いたこともあり、やめたいと思ったことも、もちろんあります。
私は毎日練習するくらいピアノが好きなわけでもないですし、基本的に飽き性で何事も三日坊主で終わってしまいます。そんな私が15年も続けてこられたのは、賜物だったとしか言うことができません。ピアノを習う多くの人は、プロやピアノの先生になる目標がない限り、小学生~中学生で辞めてしまいます。
私の通う教室も、小さい子はどんどん入ってきますが、上はどんどんやめていき、私はいつの間にか上から二番目になっています。
レッスンスタイルも少し特殊で、一般的に習うバイエルやソナチネなどは習わず、先生独自のスタイルでした。ピアノの発表会もなかったため周りのレベルは全くわからず、良い意味ではのびのびと習っていましたが、一方では切磋琢磨する相手がいないため、ひたすら自分を見つめる日々でした。しかし、発表会はなくとも教会という場があったから目標を見失わずにここまで来ることができたのだと思います。  
 中学生の時に初めてメサイアの伴奏を任せて頂き、高校生で祈祷会の奏楽をさせていただくようになりました。奏楽を始めた当初は、私の上が親子ほど年の離れた山本盡子先生と森田初実姉しかいなかったため、私がやらなければという変な義務感があり、正直やらされているという気持ちもあったと思います。今でも日々の生活に追われると、仕える感謝よりもしんどさを感じるときがあります。しかし、この働きをさせていただくことで多くの恵みをいただき、神様に近づくときを与えていただいています。特に、今年のミルフィーユのコンサートでは今まで感じたことのないような心から湧き上がる喜びを感じました。バンド形式になると、ピアノはどちらかというと目立たない下支えの役割になります。しかし、賜物は目立つか目立たないかで判断されるものではありません。兄弟姉妹と心を合わせて神を賛美する喜びと感動は格別です。
  先日始めさせていただいた礼拝の奏楽は、並々ならぬ緊張感があります。ピアノの技術でどうにかなるものではなく、霊的な備えが必要であると強く感じています。大先輩のお二人にアドバイスをいただき、支えていただきながら務めさせていただいています。神様から与えていただいた最高の賜物を土に埋めるのではなく、なお用いていただき、神様に栄光を帰す者でありたく願います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)