同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 世に関する神のご計画について (10) —
 聖潔に関して(3)

「激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。・・・彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。」(使徒 15:7-9)
「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネⅠ 1:7)

<聖化、聖潔の本質>

 救いの恵みを受ける時、悔い改めにとどまって、罪の赦しと新生のいのちに与らないでいることがあります。同様に、潔めの恵みを受けるとき、自分の献身にとどまって、聖潔を受けていないことがあります。その原因は「信仰」です。
 神は信仰に応えて恵みをくださるのですから、献身を果たしたなら、冒頭に掲げたみことば、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」と信じることです。そう信じるときよめを実現していただけます。そしてそのとき、聖霊を受けることができます。

 それを受けたひとは、聖霊がこころに内住してくださったことを自覚します。はじめは、ただこころが平安であったりするだけしか、分からないこともありますが、潔められた人生を歩み始めるとやがてこれらことを理解できます。
 救いの恵みに与ると、自分の罪を思い出して悔い改め、人への謝罪にいくことがあります。同様のことが潔められた後の歩みにもおきます。それは、理解ができず愛に相応しくない行動をしてしまったとか、この世のものを大切にしていたとか、もちろん人により違いますが、不足を覚えて悔い改め、「イエス・キリストの血はすべての罪をきよめる」と、問題を感じたそのことに対して信じるのです。それが冒頭のみことばの「光の中を歩む」ということで、そうするならば、きよめは失われることがなく、栄光から栄光に進むという信仰を生きていくことができます。
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とヨハネが書いた言葉は現在形で書かれていて、光の中を歩んだその時はきよめられているということであって時間差がなく「今」そうなっている、きよくなっているということを意味します。
 繰り返します。「献身」を果たし、「光の中を歩んで」いる人は、「みことばが自分の内に実現している」と信じていなければなりません。
それが「信仰によってきよめる」ということです。
 このことばの意味は、神が備えてくださっている恵みを受け取る鍵は「信仰」だということです。信仰がきよめるのではなく、イエスキリストの血による贖いがきよめるのですが、ペテロが表現したように、きよめが私たちに実現するのは「信仰によってそれを受け取る」ことにかかっています。

<聖霊の内住がもたらすもの>

 聖霊がこころの内に住んでくださると、救われた時にくらべ一層「新しい人」になります。そして以下のような変化をきよめの内を生きていくとき自分で自覚します。
ある項目は豊に、ある項目はわずかであるかも知れませんが列記すると以下の様な事柄です。
・こころのきよさ
・罪から解放されたこころの自由
・新しい自我(新しい人)
・聖性
・世と罪についての理解
・神の義に関する理解
・真理の理解
・神がご覧になるように世と物事を見、神のみこころを知ること
・イエスの平安
・イエスの喜び
・祈ることができること
・愛のこころを持つこと

<聖潔と人間の品性>

 聖潔の恵みに与ったとき、「善い品性」が一度に与えられるのではありません。
たしかに悪の源である「古い人」が十字架につけられてその働きをやめるので、善い品性に生きやすくなります。

 品性は「聖霊の実」すなわち「行い」と一体となって存在するものです。ガラテヤ人の手紙5章22-23節に、
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。」と書かれているので、それが聖霊に満たされた時、一度に人に与えられると錯覚するのです。実際は聖霊はそれらの善い品性の行いを人がなすことができるように助けて下さるのであって、与えてしまうのではありません。
「聖霊の実」とは聖霊の助けによって「人間が結ぶ実」なのです。「善い実を結びなさい」それは人間に命令されていることであって、善い行いを聖霊が勝手に行うのではありません。あくまでも行うのは人間です。「実を結ぶ」とは「行う」ことであるという概念をしっかり把握しなければなりません。どの項目も勝手に得られるのではなく、その品性を必要とする機会に導かれてそれを行うことによります。
 「聖化」、「聖潔」、「全き潔め」、呼び方はなんであれ、それは「人間の品性の完全」ではありません。「古い人」「原罪」「生まれつきの性質」「生まれつきの自我」がキリストともに十字架につけられて「死ぬ」ことの方が中心です。
 そして「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、・・」(コロサイ 3:9-10)ます。古い人の行いは、「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼり、・・怒り、憤り、悪意、そしり、・・」と書かれています。繰り返しますが、古い人の行いを離れて、聖霊の導いてくださる善い行いに生きるとき、行うことのできた品性が自分のものとなります。