同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 純粋な信仰 —

山田 大


「主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。それはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。すべては、あなたのしもべだからです。」(詩篇119:89-91)

 今年5月、娘が結婚をしました。

 どのように表現をするかは気を遣うところですが、私が知る中では非常に稀なケースで、相手の男性が娘の所属する(つまり私たちの)教会に転会することになりました。花嫁の父親としては、(私の性格からして勿論曖気にも出しませんが)実は小躍りして喜びたいところです。
 予てより、「娘が嫁ぐ時には、もれなく父親の私も相手の教会についていきます」と半分冗談で公言して憚らずにおりました。それは紛れもなく、娘の家庭に於いて信仰の継承がきちんとなされていくか、傍で見ていなければ気が気ではない、という思いからでした。
 私は一度、その思いを嘉納先生にご相談させていただいたことがありました。先生は、「その教会の先生方にお委ねするのが良いのではないでしょうか」と仰ってくださいました。私はその時素直に「ああ、その通りだなあ」と思いました。よくよく考えてみれば、自分がついて行かなければならない、というのは不遜な思いであり、相手の先生方に対しても失礼ではないか、増して神に対しても委ねていないことになるではないか、と思わされました。
 相手の男性がこちらの教会に来てくれる、というのは私にとっては本当に奇跡の様なことです。祈りの応えのように思う方もおられるかも知れませんが、実は私は相手の方がこちらの教会に来ますように、と祈ったことはただの一度もありません。もっと言うなら、娘の結婚ということすら(娘にはショックかも知れませんが)あまり熱心に祈ったことはありませんでした。私たち夫婦がひたすら神に祈り続けて来たことは、子ども達が信仰の継承者になりますように、ということだけです。その意味において、祈りはまだ終わっていません。まだまだ真っ只中です。
 しかし「その教会の先生方にお委ねする」という純粋な信仰に立った私に対しての、まさに神からの答えが、このことであったのだろうと信じています。

 私たちの教会では、このたび一人の姉妹が天に召されました。晩年重いご病気に苦しみ、長い間大変な中を通って来られた姉妹でした。しかし、姉妹は最後まで祈祷会では率先して祈りの手を挙げ、私たちの先頭を走って下さいました。  その姉妹が、天に召されるわずか4日前の祈祷会でも、かなりお体は苦しそうでしたが、変わらずに祈りの手を挙げ、私たちの教会の若い牧師先生の結婚のために祈っておられました。その牧師先生は女性です。結婚は是が非でもしていただきたい。けれどこの教会を離れてしまわれたら、この教会の将来はどうなるだろう、姉妹の絞り出すような祈りの声に、そのような切実な思いが込められているように私には感じられました。
 神は必ず最善を行ってくださる・・・言うのは簡単だ、と思ってしまいます。しかし、ここまで神は私たちの目の前に、あの出エジプトのイスラエルの民にしてくださったように、ご自身の御力をもって力強い御業を成して来られました。霊的な目をもってそれらを見届け、そして信じることが求められます。姉妹は純粋な信仰に立って祈っておられました。
 姉妹の姿に、亡くなった母を思い出すことがあります。母もまた、純粋な信仰者でした。美容室を経営していた母が私に「今朝ね、今日はパーマのお客さんを10人与えてください、ってお祈りしたのよ。そしたら9人目で(閉店の)時間になっちゃって、(従業員の)○○ちゃんがパーマをかけたい、っていうから、それで10人かな、って思ってお店を閉めようとしたら、来たのよ! 10人目のパーマのお客さんが!」そんな話題をよく話してくれました。自分の母親ながら、この人は本当に子どものような信仰者だなあ、と当時は微笑ましく思っていました。

 冒頭の聖句は、今年年頭に与えられたと信じる御言葉です。自分の目には、地は神の定めに従って堅く立っているだろうか、自分に問いかけます。神は純粋な信仰者にこそ、霊的な目をお与えになるのかも知れない、と思いつつ。

 最後まで純粋に神に祈り続けた姉妹の信仰を偲び、姉妹の教会の未来を思う祈りを引き継いで、大切に胸に抱くように守り続けたいと思わされました。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)