同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 失われた神のかたちの回復 —

「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(ガラテヤ 4:19)
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」 (コロサイ 1:15)

 パウロは「キリストのかたち」がガラテヤ教会の信者のうちに造られることを述べていますが、これはもちろん今の私たちを含むすべての信者に対するものであることは言うまでもありません。そして、「キリストのかたち」は「神のかたち」です。
 この「神のかたち」が私たちのうちに造られることこそが「聖潔」であることを、ジョン・ウェスレイは「キリスト者の完全」の中に、メソジストの教役者の年会議事録から引用してそれを示しています。

(以下にその部分を引用)
『17.
1744年6月25日月曜日に、私たちの初回の会合が始められ、6人の聖職者と私たちの全説教者が出席していた。翌日の午前中、潔めあるいは完全の教義について私たちは真剣に検討した。 この問題に関する質問が出されたが、質問事項に対して与えられた回答は、以下のとおりである。
・・・
質問 :潔められるとはどういうことであるか?
回答:義と真の聖であることに関しての「神の像に更新されること」である。
質問:完全なキリスト者になるということにはどういうことが含まれているか?
回答: 私たちの全心、全心情、全霊をもって神を愛すること。(申命記6:5)
質問:それはすべての内心の罪が取り去られたことを意味するか?
回答:まぎれもなくそうである。さもなければ私たちはどうして「私たちのすべての穢れから救われた」(エゼキエル書36:29)と言うことができようか?

私たちの第二回目の会合が1745年8月1日に始まった。 翌朝私たちは聖潔について以下のように討議した。
・・・
質問:いつ内なる潔めが始められるか?
回答:人が義とされた瞬間からである。
(彼が完全に潔められるまで、罪、しかりすべての罪の種が彼のうちにまだ残っている。)その時点から信者は次第に罪に死に、恩寵に成長する。』

 要点は、
1.聖潔とは私たちの内に「神のかたちが回復されること」である。
2.その結果「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛する」ものとなる。
3.それは「内心の罪」すなわち「罪の性質」=「原罪」が「取り去られる」=「死ぬ」ことである。
4.(この箇所では)「聖潔」の完成に至るのは、「新生」にはじまり、「次第に罪に死に恩寵に成長する」としているが、他の箇所で「聖潔」は「死」と同じように「瞬時に与えられる」ことであるとしています。
(恩寵に成長することによって、信仰によって聖潔を与えられる「古い人の死」という関門を通れるひとになる。恩寵に成長しなければありえないとします。)
大切なのは、1.と3.で、2.は1.の結果、4.は3.を与えられる過程です。

   きよめ派の人々も、この「神のかたちの回復」にあまり関心がなく、「全き愛」とか、「義に生きる」とか、ガラテヤ人への手紙の「御霊の実」、やコリント人への手紙13章の「愛」というようなことに関心が向いているように感じます。そのためかこの「神のかたちの回復」についてあまり研究、考察がされていません。
 それでどのようにして私たちが自分のうちに神のかたちを回復していただけるのかを考えてみますと、それは「新生」によってです。
「新生」は「神の子」として「神によって生んで」いただくのであって、そのとき神は私たちを「神のかたちの子」として生んで下さると考えるのが妥当です。
しかし、救いに与った初期の段階では、「新生」のいのちと、「古い人」(すなわち「罪の性質」、「原罪」、「サタンのかたち」)を両方持っている「二心」のものです。
 引用したキリスト者の完全の4.項はそれを言い当てています。

この「古い人」の死によって「二心」が解消され、ひとつの目、ひとつの願望、神と人とを愛す「ひとつの心」を持つ者となります。
それが「全き潔め」です。