聖書研究
— 救いについて(35) —
野澤 睦雄
「私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。 すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」 私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、言った。「ああ、天の神、主。大いなる、恐るべき神。主を愛し、主の命令を守る者に対しては、契約を守り、いつくしみを賜る方。どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエル人のために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエル人の罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。 私たちは、あなたに対して非常に悪いことをして、あなたのしもべモーセにお命じになった命令も、おきても、定めも守りませんでした。しかしどうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを、思い起こしてください。『あなたがたが不信の罪を犯すなら、わたしはあなたがたを諸国民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとい、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしはそこから彼らを集め、わたしの名を住ませるためにわたしが選んだ場所に、彼らを連れて来る』と。これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。」(ネヘミヤ記 1:2-11)
3.聖書が示す人間観・・・救いの必要、救いの内容を考察する基礎
<祈り>
祈りは聖書全体に書かれているテーマです。
イエス・キリストはご自分も祈りの人であられ、祈りなさいとすすめられました。
祈りは信仰とともに働いて、神がご自身の業をなさるのです。
繰り返しのべていますが、新生のいのちに「祈ることができる」機能があります。新生していないひとにはその祈りができません。
- 祈りの実例 -
先にイサクとエリヤの例から、神のみこころであるのに、ひたすら長い間祈って、祈りをきいて頂いたのでした。
モーセが十戒を頂いたときもそうでした。
神がそれを授けると、モーセをシナイ山に呼ばれたのでしたが、かれは40日40夜断食祈祷をしました。「パンも食べず水も飲まなかった」と、彼はいっています。
今回取り上げているのは、ネヘミヤの祈りです。
彼は、私たちは罪を犯し、モーセにお命じになった掟を守りませんでした、と罪の告白をしました。けれども神のお約束の言葉に頼り、エルサレムの城壁の再建を願いました。
彼の祈りは聞き届けられ、神は彼の祈りを成就されました。
ネヘミヤは自分の祈りのために、労苦しました。自分ひとりでなくその地にいるイスラエルの民に、それを実行する意欲と勇気を奮い立たせることからはじまりました。多くの民が参加してくれましたが、参加した民は多くの労苦をしました。くわえて現地の外国の民の妨害、参加している民に貧富の差があって、貧しい民が苦境に落ちいったこと、そこにいるイスラエル人のうちに現地の民と婚姻関係を結んでしまったひとびとがいたこと、敵に内通するものがいたこと、神の宮と祭司、レビ人たちの生活がなおざりにされたこと、等々、ネヘミヤはそれらの対処に多大な労を払いながらその対処に成功しました。ネヘミヤ記はその記録です。
「こうして、城壁は五十二日かかって、エルルの月の二十五日に完成した。」(ネヘミヤ記6:15)
「イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。だから、あなたがたが外国の女をめとって、私たちの神に対して不信の罪を犯し、このような大きな悪を行っていることを聞き流しにできようか。」 大祭司エルヤシブの子エホヤダの子のひとりは、ホロン人サヌバラテの婿であった。それで、私は彼を私のところから追い出した。 私の神。どうか彼らのことを思い出してください。彼らは祭司職を汚し、祭司やレビ人たちの契約を汚したからです。 私はすべての異教的なものから彼らをきよめ、祭司とレビ人のそれぞれの務めの規程を定め、 定まった時に行うたきぎのささげ物と、初物についての規程も定めた。私の神。どうか私を覚えて、いつくしんでください。」(ネヘミヤ記13:26-31)
私たちの祈りの多くが、ネヘミヤの祈りと同じように、そのために多くの労を払うことによって、神に聞いて頂けることでしょう。