同労者

キリスト教—信徒の志す—

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- キリスト者の一致(2)  ~召しにふさわしく~ -

石井 和幸

「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」(エペソ 4:1-3)  

 冒頭の聖句は、今年私に与えられた年間聖句であります。4月号のこのコーナーに引き続き、この聖句をテキストとしている本・・・D・M・ロイドジョンズ著「キリスト者の一致」を紹介しつつ、今私に示されていることを書かせていただきます。
 この本の2章では、「召しにふさわしく」と題して聖書の講解がなされています。「ふさわしい」ということばには、「重さが等しい、均衡がとれている」また「似合う」という意味があると著者は述べています。聖書が語る「教理」と「実生活」のバランスがとれているか?どちらかに偏重され、一方がないがしろにされていないだろうか? また、キリストの福音に召されたにもかかわらず、不釣り合いな信仰生活を過ごしていないだろうか?という問題提起とともに、私たちは「神の教えを飾る」生活を送るべきと勧めています。私たちは罪のなかから、イエス・キリストの十字架、その血潮によって救い出され、贖われて神の子どもとされました。そのように神によって召し出され呼び出された人々が集まるのが「教会」であり、教会の一員であることがキリストのからだの一器官であることにほかならないことを、エペソ5章までを紐解いて書かれています。また、神によってつくり変えられる神の作品として、神によって召された~引きよせられ、遣わされた~ところで従順に生きる自らは、キリストに捕らわれた身であり、召された歩みについてキリストが責任をとってくださるので、思い煩うことなく私たちは「キリストのしもべ・主の囚人」としてキリストとともに歩む必要があると書かれています。
 10月8日は私たち夫婦の結婚記念日でありました。16年間守られたことを主に感謝するとともに、私の家庭における「主による召し」を確認し、振り返るときでありました。また、仕事や社会生活においても、「どうして私はここに召されたのだろう」と特に思わされるような日々の戦いが続いております。(神を信じているのだから、神が益としてくださらないはずがない)と信じつつも、自分の思い通りに物事が進まないことがあると、すぐ呟いてしまったり、言い訳をして自らの課題を棚上げにしたり、歩みが後手になってしまったり・・・ということが多くあります。しかし神は私に、「キリスト者の一致」という取り組みにあってまず「自分が神のご計画、神の召しに一致しようとしているのか」と語りかけてくださっています。「神の召しに生きているならば、真剣に祈り求めてごらんなさい。神に伺い、細き御声に従いなさい」という導きは、私が決して自分を誇りとせず、主に栄光を帰して、主に感謝することを絶やさないためであると、最近示されています。「神の召しへの姿勢」が主のみこころにかない、キリストの福音にふさわしく整えられるように。御国を受け継ぎ、信仰を継承していく約束に与るものとなれるように、主の前に遜っていきたく思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)