同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 復活された主のなさったことから  —  

「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」」(ヨハネ 20:24-29)

「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。・・・・それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」 (マルコ 16:1-8)

「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。・・・
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。・・・」(ヨハネ 21:1-22)

 イエス・キリストの復活にはなんと多くの事柄が含まれていることでしょう。
それはイエスが、先在者、神の子、キリストであったことの証明、私たちの罪の購いの完成の証明、私たちの復活と永遠のいのちの保証、私たちの復活の様を啓示するものであり、私たちに聖霊の降られることの保証であるなど、語り尽くせない内容があります。
 ここでは復活の主が取り扱われた二人の人物のことだけをとりあげてみます。

 その一人はトマスでした。
彼の問題点は「仲間の弟子たちの証言を信じない」ことでした。これからさき彼らはイエスの始められた福音宣教の事業を担うのです。ですが福音はかれらの証し、証言を聞く人々が、その証言を信じることによって伝えられるのです。 その役をになう当の本人が仲間の証言を信じないことは決定的な傷であって、それでは福音宣教の成功は望めません。
ですからイエスご自身が、トマスの言ったことを「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。・・」とそのまま彼に言って、「見ないで信じる」ことのできる者とされました。

 もう一人はペテロです。
イエスの十字架の時に、彼ほど失敗した弟子はいませんでした。
ペテロの失敗について、本誌の「神への道(94)」に解説されていますから参照して下さい。
このイエスにとってご自身の始められた福音宣教の事業をペテロに委ねることは大切なことでした。
ペテロ失敗の入り口は「自信過剰」でした。
彼は仲間の全部がつまずいても自分はつまずかないと思っていました。それでイエスの警告が耳にはいりませんでした。
それで彼は「遠く離れて」イエスについていきました。

さらに彼にはイエスを殺そうとしている大祭司の家に知人がいました。キリストの敵たちと仲良くしていた、とムーデーは解説します。その結果、大祭司の家で使われている女とであうことになり、そのひとことにもたえられないで、イエスを知らないと言ってしまいました。つづく出来事で、イエスのいわれた通り、三度イエスを知らないといってしまい、「外に出て泣く」ことになりました。  イエスはペテロを福音宣教に召されたときに行われた大漁の奇跡をもう一度行われ、「あなたはわたしを愛しますか?」と言われて彼を赦し、その信仰を回復させ、福音宣教の事業を彼に委ねました。

 私たちにも福音宣教の事業が委ねられています。私たちにも失敗は多いかもしれません。しかしイエスは同様に豊かな愛をもって私たちをお取り扱いになります。イエスの愛は豊です。