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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」-報告-159 —
   -- 2024年8月 開催 --

山本 咲


列王記Ⅱ 7章

 今日は列王記Ⅱの7章を取り上げていきたい。先月の6章は人々が厳しい飢饉の中に置かれたというところが最後に取り上げられ、7章につながっている。その飢饉の過酷さは、生きるために自分の子どもを食さなければならないほどだったと述べられている。その時にも語ったが、神の民であっても決してすべてのことが上手くいくわけではない。それは信仰者になった私たちの現実の生活と同じである。私たちはすべてが上手くいけば、神を求めるということはしなくなってしまう。それを神はご存じであるがゆえに、訓練や試練を導きながら、その御姿を私たちの前に表し続けておられるのである。それは、困難である一方で、確かに恵みへとつながるものなのである。 イスラエルの民は自らが神に特別に選ばれた民であるという自覚があったゆえに、誤った考え方をもってこの出来事を受け取ってしまった。結論から言うと、それは信仰の希薄さが招いたことである。彼らは信仰を強く持つことができなかったがゆえに、反抗、当てつけのような心を抱いた。そしてその矛先を直接、神に向けるのは恐ろしかったのだろう。だからこそ、その代弁者である預言者へと向けたのだ。その生命を取ろうとまでする彼らの攻撃が行われたのである。6章前半との対比のようにこれらのことが行われ彼らの信仰がいかにその時々で変化し、自分たちの都合のいいように扱われていたかが明らかにされている。筆者はこの出来事を並べて描き出すことでよりコントラストをはっきりとさせようとしたのだ。 それでもこの6章の出来事はそのままイスラエルが苦しみの中に置かれて終わるのではなく7章の恵みの出来事において、そのような信仰が不安定で自分勝手な者たちであっても、神が見捨てておられないことが語られている。真っ暗闇の中で滅びを待っていたイスラエルが光へと導かれていくのだ。6章最後には「見よ。これは主からのわざわいだ。これ以上何を私は主に期待しなければならないのだろうか」と語られている。そのような言葉を言いながら何も期待することができず、この出来事を神からの裁きとして受けるしかないのかと彼らの心が吐露されているのだ。けれどもこの7章の最初のところにはそんな真っ暗闇の中に神の御業が預言として語られ、その神の栄光がこれまでにないほどに輝いた。「あすの今ごろサマリヤの門で、上等の小麦粉一セア一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる」と語られている。これはどれほどの喜びの言葉だっただろうか。しかし、それはあまりにも彼らにとって信じられないほどの恵みだった。だからこそ、その出来事を素直に受け入れることができず、暗闇に光があったにもかかわらず目を開き、その光に手を伸ばすことができなかったのである。取り上げられた王の侍従であった彼は王がその腕に寄りかかるほどだったと書かれている。以前取り上げたナアマンの記事にも彼の地位や王との関係を描き出すときに同じような内容が取り上げられていた。この従者も王から信頼を置かれていた人物だった。しかし、それはあくまで人間の動かす地位、権威だ。だからそ限界もある。ただこの出来事もその限界を示すために書かれたのではない。この後3節のところから4人のツァラアトに犯された人々が出てくる。いま礼拝でも取り上げているが、ツァラアトは神を礼拝するという権利が取り上げられてしまった状態である。彼らは排除されてしまい神を礼拝することができないのだ。その故に人々は彼らや彼らの親が罪を犯し、その罰を受けているのだと考えていた。しかし、そうではなかったことが福音書の生まれつき盲目に生まれた者とイエス・キリストとのやり取りによって明らかにされた。彼らもまた、神の業がそこに現れるために遣わされていたのだ。神の業は、位の高いものの前に表されるだけではなく、ともすると飢饉の中で一番に生命を落とすだろう彼らの前に表されたのだ。前章で子どもが親の犠牲になってしまったことが書かれていたが、次に犠牲になるのは、その次に弱いものたちである。ツァラアトに犯された人々は門の前で物乞いをして、そこで受けたもので生活を形成していた。だからこそ、それが受けられなくなった今、もう死を待つだけの状態だったのだ。しかし、彼らもそのままただ待つよりはとアラムの陣営に行こうと動き出した。まさかそこで真っ先に神の御業を見ることになるとは考えもしなかっただろう。その出来事を前に、彼らは神のなさる業を喜びの訪れとして受け、さらにそれを伝える者たちとなったのである。神のなさる事は不思議なものである。人が一生懸命に頑張ることや努力だけでは越えられないものをあっさりと越えてことを行われる。神が召してくださり、遣わしてくださるということへ特別な賜物があるのだ。彼らは自らの病の前に、その人生を憂い、悩み、恨みながらアラムへと逃げていった。しかし、そこで大いなる御業を見た。初めはその喜びを自らのものだけにしてしまおうかと思ったことである。しかし、それではいけない、そのままでは神の罰を受けてしまうと考え、王へと伝えに行ったのだ。彼らの方が正しく神をとらえ、健全な信仰を持っていたのだ。このままではいけないと動き出し、神の御業を告げ知らせるものとなったのだ。  その後、神が預言者を通して語った通りに、小麦や大麦が売られるようになった。さて、そこで先ほどその預言者の言葉を否定していた侍従はというと、門の管理をしていた。それは、門から勝手に逃げ出すものがないようにするためだった。しかし、それゆえに彼は逃げたアラムの残していったものを取りに行った人々に踏みつけられ、死を迎えることになる。彼はその恵みの訪れは聞いたが、直接受けることができなかったのである。彼はそのような裁きを被らなければならなかったのである。列王記の記者は人間の動きを実に見事に描き出し、そのコントラストを生み出している。いかに私たちは信仰をもって歩むべきかということがあらわされているのだ。今の時代はより一層人の力、権力や、財力、学力などが整い、それが価値観、誇りというものになっている。先ほど早天祈祷会の中でイチローが人生を野球にささげて生きているということが取り上げられていたが、それでも、人生の最後老いには勝てない。いかに神が定めた人の生きるということの中で主と共に歩ませていただく時、必要なものを与えていてくださることを覚えるのである。素晴らしいと呼ばれる人々の活躍を私たちは知っているが、それにも必ず終わりが来る。だからこそ、神が与えてくださる一方的な憐れみのみが私たちを真に救うことを忘れてはならない。 Q:今日のところの9節でツァラアトに冒された人々が「私たちはためらっている」と書かれていますが、このためらいとはどのようなことに対するものですか。 A:取り放題、食べ放題という状況の中でどうすることが良いかと考えている状況がある。どこかに隠してしまえば彼らだけで独占できた。「私たちの時代が来た」とも思ったかもしれない。しかし、そのようにしていいものかと考えたのだ。サマリヤにいる人々はこのところでこの食料がなければ滅びを待つしかなかった。その意味で言えば、先に滅ぼされるはずだったのは施しが無くなった彼らのはずだった。立場が逆転したのである。ここで、総取りしてしまえば、今まで下に見られていたその状況を変えることができると思えた。そういう意味では彼らがそこにあるものをとっても問題ないと説明できるような状況だった。人間はそのようにして自らを正当化できる。それこそが彼らのためらいだった。しかし、彼らはそれが良いことではないというところへと導かれた。聖霊の働きであったのではと私は感じる。彼らもやはりイスラエル人であり、今まで神が誰かを通してなされる施しを受け、支えられて生きてきたものとして心に響いた部分があったのだろう。私は以前教会創立記念の際にルツ記を開いて、コミュニティの持つ信仰を豊かにする力について語らせていただいたが、このところもそうであったと考えられる。私たちもいろいろな形で共生し、共助している。隣人を愛し、助けていくということは神の民において大切なことなのである。何にせよ、神の恵みはイスラエルに注がれるべきものであったため、誰かが独占してはならないものだったことは言うまでもない。 Q:アラムの陣営に行った4人の者は餓死で死んでしまうような可能性があったと書かれているのですが、その4人がツァラアトに犯されているとわざわざ書かれているその意図はどこにあるのでしょうか。 A:一般の人が餓死するというほどには至ってなかった。やはり、地位というものが背景にあり、窮地に陥る順番があるのだ。神の前に同じ人間であるということが本来の姿だが、それがなされず神を意識できずツァラアトに冒されたものという立場が低い者たちから死にそうになっていたということである。未だに弱いものから滅びなければならない現実がある。それは人間が、神を信じることから外れ、不十分な中で生きているからだ。それはどれだけ時代が変わり裕福になっても、変わることなく繰り返されているのだ。だからこそ、そのようなところから戦争がなぜ起こるのか、神はなぜそのようにするのかという人がいる。しかし、それはその人の価値観で考え、ことを評価しているのであり、実際のところ最善はわからない。そのような思いを持つ人を中心に物事が考えられているのである。では神のことを評価する視点でいる人とは何者なのだろうか。そのような地位があるのだろうか。神を自らの価値観でとらえいいのだろうか。そのような権威をもつもの、力を持つものはいないのだ。誰も神のように過去も現在も未来も、多くの人々の動きもその心をも知る人間などいないからである。それは神を自分の価値観で評価しようとする人間の傲慢と言う罪があるのだ。私たちは自らが生かされている事実をとらえ、感謝することこそが必要なことなのである。 ツァラアトに冒された者たちはその意味で次に死を待つ者たちだった。だからこそ、ただそのまま死ぬのではなく、アラムに行くという行動を選択したのである。 人間は社会で生きながら自分の上には人がいるという感覚とともに、下にも人がいるということをもって決定的な差別を自覚し履行している。そのようにして自らの立場というものをとらえているのである。しかし、神を信じ、与えられた一方的な憐みを信じているものこそが本当の意味で、自らの上に人を置かず、下に人を置くこともなくなるのである。それが不十分だと、自らの上に人がいると考え、媚びたり、下に人を置いて自分を生かすために人をしいたげ、利用し踏みにじって良いこととしてしまったりするのである。私たちはそのようなところから信仰と救いを得たことで解放され、上にも下にも人を作らずに生き、人を神の道へと導いていくことができるのである。私たちは昨日、未来を語る会を行ったが、それは数年前この会がもたれるようになったその時に何が行われるかもわからない中で福音宣教のために何をしていきたいかと話しあわれたのが始まりであった。そして少しずつそのことを考えはじめ、実際に社会において福音宣教に生きることができるようになった。福音宣教に生きるとは、先ほどのような考え方で上下の考えにゆすぶられることなく生きたり、社会における地位を築き上げながらも、他の人とは違う何かというものを表しながら生きられたりするようになった。社会においてそれぞれが信仰を表し、実践して日々を生きているのだ。それこそ神の与えてくださった正しさ、知恵、力であり、神の恵みなのである。 今は子どもたちも福音宣教に携わることができている。彼らも本当の意味で自らを生かしているのだ。人はその場所で自分が用いられるようになると偉くなったと勘違いしてしまう。そして、その先にはたたかれるということも出てくるのだ。しかし、自らを福音と神の召しの中に活かしていくと迫害は受けるかもしれないが、自らを地の塩、世の光として豊かに生き生きと活かすことができるのである。そうでないと、偉くなりなさい、勉強でいい成績を取りなさいということでしか、世に勝つことのできない人に育ってしまい、自己中心と我儘から、最後にはキリスト教それ自体自らを縛るものとして邪魔だと感じてしまうものになったりするのである。「キリスト教は要らないです。自分の好きなことをやります。自分の選ぶ道で成功していくようにします」というものになってしまうのである。 教会全体で神に問い続けていた中でこの道がだんだんと開かれていったのである。一本杉の教会が与えられて2年が過ぎたが、なおこのところを用いながら、大切に働きをなしていきたく願う。 Q:エリシャに対して、侍従が「たとい主が天の窓が作られようともそんなことがあるだろうか」と言っていますが、その姿は権威者に対する対応とは思えません。権威を持っているものと、それに従う、認めるものという視点で、大切なことを教えてください。 A:侍従は侍従の視点で物事を見ていた。彼もまた権威者であり、成り上がりにしても、世襲にしても、その立場でいることの役割を理解していた。そういう意味では、彼が所属不明の者の発言に対しそのように言ったのは、一面困窮している民を前に何の根拠もない夢物語をぶちまけるような不真実なことをしてはならないというような意図があっただろうと予想される。そういう意味で彼の前に一抹でもその可能性が考えられたなら、彼もここまで言わなかっただろう。例えば、アラムの使者が休戦交渉に来たという状況だったとか。しかし、そのような片鱗の1つも見えない中で、このような発言をしたからこそ、彼はエリシャに対して、先ほど取り上げられたような主張をしたのである。きっと彼も何らかの片鱗が見えていれば、一面そうなるだろうと納得し、神の御業というものであることを感謝したかもしれない。しかし、実際はそのようなことが一切ない中でことは進められた。ただ、エリシャもまた、そのようなことは一切見ることを許されていない。彼自身も、彼とともに生きる預言者のともがらと呼ばれるような者たちも困窮した中を生きているのだ。しかし、彼には神に語られたという事実があった。それだけが彼を動かし語らせる力となったのである。 私たちは権威という言葉を使っているが、神が直接語られるということ以上のものはない。それはまばゆい光で人間がとらえることの出来な程であった。そこにこそ神に御業があり、預言者がその言葉を告げるものとしていなければならないのだ。そうでなければ、人がとらえようとしてもとらえられないほどなのである。暗すぎて見えないということもあるが、明るすぎて見えないということも起こるのだ。そこには人間の限界と現実がある。私たちは権威者として、神の全能と栄光を前に頭をたれて生きなければならないし、自らが侍従のようになってしまうことを畏れなければならないのだ。私たちは神の御心を語るものとして、恐れ畏みながら生き続けなければならない。そして、この新約の時代には見えない光ではなく、見える光としてイエス・キリストが現れてくださった。福音書ではイエス・キリストについて語られ、私たちはその十字架と贖いを知り、その神学をパウロに学び、手紙に学び、教会を作り、その営みを通してイエス・キリストを知るという道に歩まさせていただいている。権威というよりは一人一人が主イエス・キリストをどのようにとらえさせていただくことができるかということが大切なのだ。私たちは一面牧会者だが、お互いがイエス・キリストの光を見るものとしてそのようなことを覚えさせていただかなければならない。私たちは福音に仕えるという点において誰も誰かに命じたり、強制したりしてそこにつかせることはできない。自分たちがイエス・キリストの光をみて、どのように生きるかと考え、取り組んでいくことが求められているのである。教会は様々な役割がある。だからこそイエス・キリストの福音を分かち合いながら生きる必要があるのだ。私は家庭集会の中で質問やそれに対する回答をさせていただくが、それは権威者というよりも先を歩んだ経験者として語らせていただくことが多い。また、先を歩まれた方の選択と結果というものから学ばせていただくこともある。そのような営みが私たちの教会にあって大切にしていることである。 私たち牧会者のために皆さんが祈り、捧げ、その姿勢を取り続けてくださることに感謝する。神が、豊かな報いをもって望んでくださると信じている。ただ、神は一方で私たちに従順を求められている。それは修行が必要である。修業とは出来、不出来というものがあり、素質というものもあるが、そこに取り組むときに神が成長させてくださることを信じるのである。私は自らを不従順な人間であると感じる。しかし、修行の中に入れていただき、様々な面で導かれた者があると信じ、感謝する。 Q:息子が自分で聖書を開くことが増えてきています。子どもが聖書に触れる機会、環境をどのように作っていくべきでしょうか。息子は絵本と同じように、ごろごろしながら読むような姿があって、私としては、机で開いて読むことを勧めているのですが。 A:聖書の知識、関心は大切だからこそそのまま維持して、妨げない方がいいと考える。ごろごろして読んでも聖書に関心があって読むというならばよいと思う。いずれ、それが信仰にむすびついていくものになる。 それが信仰や、霊的なものと結びついていくということは個人の問題である。ただ本人が、どのような形でそれをしているかというのを親がとらえていく必要があるのだ。そのような中で親が観察し、その子の癖や何をもってそれをしているのかというものが見えてくる。その中で親が手を加えたり、導いたりしていく必要がある事柄があるならば、手を入れるという形をとっていくべきである。姿勢を正すというのは、聖書や神の言葉に対する権威というものが分かって初めて行われることである。今の彼にその部分を理解するのはまだ難しいだろう。それをあまりにも進めていくと、関心の方が薄れてしまう。だから、慎重に行っていく必要があるのだ。しかし、その関心は最終的には聖書が神と救いに結びついていくものであるだからこそいま大切にしていってほしい。そしてそれをより深めていくという意味では、彼とコミュニケーションをとって、「どんなところを読んだの」「お母さんはこんな話を読んで、それはここに書かれているの」などと話してより興味を深められれば良いだろう。 私たちの教会は母子室を作っていない。ある人たちから言わせれば、ナンセンスと呼ばれるようなことである。しかし、私たちはあえてそのようにしている。それは、同じ空間の中で子どもたちが得られる経験と、感覚、霊的営みに早く取り組んでいくということで祝福と恵みが豊かにあることを知ったからである。彼ら自身もまた礼拝者としてそこに座する特権と誇りを持っているのだ。 一本杉の教会においてはサンデーキッズにお友達を誘うということや集会の司会や讃美、お祈りの御用がなされている。これも、今までの時代なら数年後になって取り組み始めることを幼いうちから行っているのだ。彼らは喜びをもってその働きを行っていることを感謝する。また、先代から続く野球での営みは子どもたちとの間に重要なものであると引き続き行っている。何十年も積み重ねられたもので取り組み続けたからこそ、得られるものを知っているのである。 またこのようなことは結婚して嫁いでこられた人々が教会の中でさまざまな役割に立ち、自らの居場所を作っていくものにもなっているのである。結婚して違う教会に通うようになると、そこで自らの居場所を作っていく必要がある。そうでないと、家庭における役割だけになり、教会に居場所を見出せないということも起こってくるのだ。その始まりは誰かの「やりたい」という声だったかもしれない。しかし、それを続けることで見出される様々なものがあることを私たちは大切にしていきたい。 あなたの息子のやりたいということは大切にしていくとよい。そしてお子さんの中に賜物が見えてきたならば、それを大切に育んでいただきたい。それが後につながる大きなものがある。 ただ、それを最終的に世の中の成功にすえかえられてしまわないようにしたい。聖書を読むことから、文章が読めるようになって、本を読めるようになり、それで国語の成績が上がる等、優越性によって世の中に取られていかないようにしたい。文学に趣向を見出すのはよい。 私は前の世代に教会でテレビゲームを提供した。最初は大丈夫かと思われるところもあったが、それによって実際に居場所を見つけた子どもたちもいた。現在もサンデーキッズのなかでテレビゲームが行われているが、実際、時代的にもそれが活きる時代になったと感じる。子どもたちの賜物を神に結びつけながら、大切に育み続けていただきたく願う。 Q:基礎科の時に聖書を読んでもわからないという状況がストレスになるという兄弟がいて、わたしも同じような思いを持ちました。読まないよりも読んだ方がいいと言われ取り組んでいます。聖書に取り組むということの難しさを感じています。 A:なんでも取り組んでいくことは必要である。ただ、話は飛躍するかもしれないが、知らない、わからないということもいいのではないかと私は思う。例えば私は知ったら知っただけ語りたくなる。だから、そのまますべてを知ればきっと今より説教の時間は長くなるだろう。それならば、すべて知る必要もないと考え方が導かれた。必要なものは必要に応じて与えられていくだろうと。知識ということもあるが、聖言と人間の現実をどのように結び付けていくか。私がそれを理解して、どのように結びついていくか、感謝に思うか。自分がそれによって満たされ、納得を与えられるということが必要なのであると考える。 私は世の中の仕事もしていた。その時間を聖書の勉強に充てていたらどうなっていたかと思う部分もある。しかし、私は現実的に必要だった部分もあるが、別にそこまで必死にやらなくてもよかった。ただ、導かれたと信じ、その働きをなさせていただいた。この働きはある兄弟に声をかけられて手伝いをお願いされて、アルバイトのようなことをさせていただいたことから始まった。そのうちに、「溶接をやってみたらどうか」と言われて、どうするか悩み、やらせていただいた。そうさせていただいたら、今度はさらに仕事を進められるようになった。 やっていなければ今も続けているなんて状況にはなっていなかったと思う。しかし、私はそれによって必要なところで働きをなさせていただいていると思う。知識というのは人を誇らせる。また、知識が付きすぎると人を遠ざけてしまう。私はそういう意味では、知識を蓄えるという方に重点を置くのではなく、人と関わることに置かせていただいた。その中で私は「権威者はその分野ごとにいる」ということを知った。また「知っている人に聞くとより早く解る」という経験もした。そして分野は違うが私もキリスト教の権威として、立っていくことができている。わからないということをわからないとして、持ち続けられるならそれは持ち続けたらよいし、一方で3日経って忘れるような親切は親切ではないといったことはあるが、同じように3日経って「何に悩んでいたんだろう」という無知は忘れていい無知である。真心から求めるものに神は与えてくださると信じて歩むべきである。 Q:最初の賛美の言葉でわからないことがあったのですが、「栄輝く国にさむる」のさむるとはどういう意味ですか。 A:目が覚めるということである。人の終末、人生の最後はどのようになっているのかは解釈が難しいところである。イエス・キリストのたとえ話の中ではアブラハムの懐とゲヘナと表現されているが、結局どのようになっているのかはわからない。また、死の瞬間の後意思がどこで目覚めるかはわからない。死んだ瞬間に懐にて目が覚めるか、それとも、ある一定の時間がたってから目が覚めるのか。ただ、寝ているところから目が覚めるのが一瞬であるように、どのくらい時間がたっているかはわからないような状況で目が覚めるのだろう。だからこそ、「さむる」というようになっているのだろう。インマヌエル讃美歌はひらがなで楽譜が書かれている。そのため、ことばの意味がとらえにくいのだろう。賛美には多くの意味が込められているが、それを読み解くことが難しいのだ。しかし、今はディスプレイで漢字にフリガナが書かれた状態で見られるようになったため、良かったと感じている。 木曜日の祈祷会で説教者として立つようになり、皆さんの姿を見る中で社会の生活を引きずっている様子が目に入ることがある。そうすると賛美がただ覚えたままに無意識に歌っているということも決して少なくはないと思われる。ただそれで終わるのではなく、もう一度歌詞を見ながらかみしめ、恵みを受けて賛美していただきたい。その中にあって導かれる感謝は大切なものであり、確かに私たちを生かす神からの贈り物であるのだ。 祈祷会の最後にはもう一度聖書を開いて話をする時を設けている。それは先代の時代に仕事で祈祷会に遅れてくる人々のために始まったものであった。しかし、現在遅れてくる人はまずいない。だからもうなくしてもよいのではと最近考える時がある。ただ、皆さんの証などを聞いていると、そのようなところで語った言葉に心が留まったということも聞くことがあり、なくしてしまうのもと思うことがある。やめるのは簡単だが、そうしてよいかは考えているところである。ただ、このことを思いめぐらすときに、本当に今皆さんが祈祷会に遅れず来られるようになったことも神の豊かな恵みであると感じる。そして、同時に、集う皆さんの様子を見るときに、世の中で必死に生きてきてなお、このところに集う姿を、神は受け入れてくださると信じている。神は必死にきていても、疲れから集中できないような姿であっても、「寝るな!」と怒る方ではない。むしろその場にご臨在くださり「よく来たな」と受け入れてくださる神であることを私は心から信じ、祈祷会を守っている。どうぞなお、これからも祈祷会を大切に集い、その席を守り、祈っていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)