同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

 -神に愛され、証するということ -

岩本 汀

  「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 」(ヨハネⅠ 4:11)  

 今年の4月から小学科(下)の担当をさせていただくことになりました。小学校1年生の顕ちゃんと一緒に、生徒と先生1人ずつ1対1という形で始まりました。そんな中、聖書の絵本を通して神様はどのような御方であるかを話しているときに「神様は私たちを愛してくださっています。」というお話をしました。その場面ではそこで話は終わりましたが、後に主人から自宅でサンデーキッズ前にメッセージのリハーサルを聞く機会がありました。そこで同じように主人が「主が私たちを愛してくださったように私たちも互いに愛し合いなさい」という御言葉を語っていました。その時にふと私は「神様が私たちを愛してくださっていることは充分にクリスチャンである私たちは分かっているけれど、まだ何も知らない子供たちやノンクリスチャンの人たちには具体的にどう伝えたら良いのか」と考えさせられました。主人にそのことを投げかけると「御言葉には友のために自分の命を捨てる、それほどの愛はありません。」とあるようにイエスキリストが私たちのために犠牲になって十字架にかかってくださったことの話をしてくれました。そのことも納得できましたがまだ深く考えてみようと思わされ、聖書を学ぶ会にて山本嘉納先生に質問させていただきました。その時に示されたのは「私自身の証を通して伝える」ということです。神様に私自身が愛していただいたことの恵みを、実体験を通して証し、伝えていくということを示されました。私自身、教会生活では様々な場面で改めてこれまでのことを考えさせられる機会が多く与えられていることを感じます。5月の讃美感謝会では救いの証をする機会が与えられました。当時の自分自身の罪深い姿があり、救いに至るまでには祖母や周りの愛する人たちの信仰者としての生き方を見たからこそ私は神様を信じることができたのだと気づかされました。それこそが神様が私を愛してくださったのだと示された出来事でした。日々の生活は神様が与えてくださる平安で心が満たされる一方、様々な困難を覚えることもあります。試練はなくなるわけではなく、次から次へと生まれていく現実を感じます。しかし、神様は私を決して一人にはせず、愛してくださっています。共に戦ってくれる人々を与えてくださっています。そのことを次の世代の子どもたちや神様を知らない方たちに証して行かなくてはならないと感じさせられた出来事でした。 

(仙台聖泉キリスト教会 会員)