論説
— 神が人になられた —
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。・・・すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:1-12)
このコラムで何度も同じことを取り上げています。
人間は神が創造されたものの傑作です。
そのレベルは神ご自身が人間になってもよいとお考えになったほどです。それは神ご自身のかたちをもっている被造物でした。
「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。・・・神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」(創世記1:26-31)
そして実際に人間の世界に、御子が人間になっておいでになりました。イエスは真の神であられますが、真の人間です。半分神と半分人間の合体したものではありません。真の人間となり、人間を経験されました。人間の苦悩はもとより、楽しみも経験され、体の疲れも痛みも、死の恐怖も、死そのものも経験されました。それを通して人間のすべてのことに応えられる方になりました。それによって人間を救うことに成功されました。そして全てにまさる名を獲得されました。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:6-9)
イエスの死を代価として私たちは救われました。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:8-10)
私たちは「神の作品」なのですが、それは、破壊され、汚された作品になっていました。その醜さは神が創造されたすべての被造物の中でもっとも醜いものとなっていました。
救われる以前の自分がそのようなものであると見えているでしょうか。自分をしっかり見ないで自分にはある程度のよいものがあったと考えていないでしょうか。また救われた後の自分だけ見ていないでしょうか。
そして隣人も全く同じ、醜いものなのです。そのため隣人もそのまま救われなければ滅びます。
救われなくても、行いを改めればいいと思っていないでしょうか。
「昨日のことはもう直せないが、明日のことは直せる」というのは真理の半分にもなりません。昨日罪を犯していたなら「今、悔い改めて、イエスの救いを信じ」なければなりません。そうすれば「明日を直せます。」悔い改めて救われないなら「明日を直すことはできません。」
全知、全能の神が、実際に人間を経験され、人間が信じやすくされたのです。
前に載せたことがある柚木庚の讃美歌「この人をみよ」をもう一度掲載します。
1.馬槽の中に 産声あげ
木工の家に 人となりて
貧しき憂い 生くる悩み
つぶさになめし この人を見よ
2.食する暇も うち忘れて
虐げられし 人を尋ね
友なき者の 友となりて
心砕きし この人を見よ
3.すべての物を 与えし末
死のほか何も 報いられで
十字架の上に 上げられつつ
敵を赦しし この人を見よ
4.この人を見よ この人にぞ
こよなき愛は 現れたる
この人を見よ この人こそ
人となりたる 生ける神なれ
(インマヌエル讃美歌153)
「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」のですが、その「よい行い」とは天におられるイエスの体として地上にイエスを現し、イエスのご事業である隣人を救うことです。
隣人に自分を見せても、その人は救われません。イエスを見せることができれば、その隣人が救われます。
どうしたら隣人にイエスを見せることができるでしょうか。それが私たちの悩みの種です。
その秘訣はイエスご自身、イエスの霊である聖霊が私たちの内に宿ってくださり、私たちの品性がイエスに似たものとなり、イエスの栄光の輝きが私たち自身から輝きでること、イエスの香りが私たちから香ることと分かっています。そのために、真摯な信仰生活をし、イエスに身を献げて生きていきましょう。自分にはあまりにも遠いことと失望せずにそれを志しましょう。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ 2:13)