巻頭言
— 土の器の中の宝 —
岩本 献一
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(コリントⅡ 4:7)
この御言葉は昨年(2024年)の5月に子どもたちの集会サンデーキッズで語らせて頂いた御言葉です。
この時はペンテコステのお話をしていたのですが、その少し前の聖書を学ぶ会で「バケツに何を入れるか?」のお話が出たため、その話を改めて子どもたちにする事にしました。
聖書を学ぶ会ではバケツにまずギリギリ入る程度の大きなボールを入れる。残りの隙間に石や砂や水は入るが、このボールは最初に入れないと入らない。
最初に入れるこのボールが、人生における重要なものなのだという例え話がされていましたが、実は自分は起源を同じくするであろう別の例えで既にこの話を知っていました。
自分が知っていたのはバケツにボールではなく、ツボに石を入れるというたとえ話でした。
サンデーキッズではペンテコステのお話の中で「聖霊なる神様を一番最初にツボに入れましょう」と子どもたちに語らせて頂きました。
しかし、振り返ると最初にこのツボの話を聞いた自分は、このツボに何を最初に入れるべきかというところに具体的なイメージが持てておらず、
「大事なものを最初に入れなければならない」の部分にただ共感をするだけでした。
実はしばらく前にこの自分のツボの中身を入れ替えなければならないと祈った事がありました。
聖別会で現在勉強させていただいているテキストを読みながら、自分の中に聖霊なる神様がいる事こそ確信はしていたのですが、
果たして十分なスペースを用意していただろうか、最初の大きなボールとして入れていただろうか、
自分の生活の中には世に毒されているような、よくないものが多いのではないだろうかと思わされた事を祈りの中で告白しました。
その祈りの中で自分の罪について自覚し「神様、必要であれば罰を与えてください。」というお祈りが自分の口から自然と出てきました。
「罰を与えてください。」といった祈りをするのは非常に恐ろしいことだったため、「出来ることならば憐れみを与えてください。」とも合わせてお祈りさせて頂きました。
その祈りのしばらく後、なかなかに長い期間身に覚えのない風邪の症状に見舞われました。
また、妻も妊娠の初期症状が出始めたタイミングだったのですが、前々から計画していた九州の祖母に会いに行く旅行の日程が重なってしまいました。
妻の症状の対処についても勝手がわからず、夫婦共に辛い状態の中、飛行機に乗る直前まで引き返す事も考えていましたが、そこでは九州に行く道が示されました。
しかしほぼずっと二人でホテルの中に籠もり、これが神の示した罰かもしれないと思い祈りながら耐えさせて頂きました。
旅行の最終日は妻が帰りの飛行機に乗れるかどうかもわからない程体調が悪く、自分の体調不良もピークの状態でした。
それでも何とか仙台の家に帰れた事は、神の憐れみだと思い感謝をさせて頂きました。
もちろんこの程度で風邪で済んだ事こそが、神の大きな憐れみだったのですが。
その旅行から帰った三日後に妻を産婦人科の病院に連れて行ったところ、妻の胎に二つの生命が宿っている事がわかり、喜びと同時に非常に驚いた事については教会の中でも証をさせて頂きました。
ですが、実は自分にはそこまでに罪の悔い改め、罰、憐れみの過程がありました。しかし、神の御業はそれだけでは終わらず、驚くばかりの祝福がこの過程の次に加えられたのでした。
この一連の出来事は自分の中でもきちんとまとまっていなかったのですが、今回文章にしていく中で改めてすごい事が起きたのだと気づかせて頂きました。
自分の人生の大事な部分を神様に支配していただくという事がどういった事なのか、その事を神様は不思議な形で私に示してくださいました。
新しい生命の誕生の時までも、その生命が誕生した後にも、人生の中心を神様に支配して頂きながら歩んでいこうと思います。