巻頭言
— 弟子となる —
齊藤 望
「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。いのちを救おうと思うものはそれを失い、わたしのためにいのちを失うものは、それを見出すのです。』」(マタイ 16:24-25)
今年も幸いな御言葉が与えられこの月まで(8月)まで主によって守られてきたことを感謝します。
講壇からは山本嘉納先生より「主の弟子となる」と題して礼拝説教が成され、キリストの弟子の働きや奇跡を通して私たちの信仰生活を顧みることができ感謝しております。
そして、牧師として歩みだした山田咲先生の礼拝説教も新たな切り口で展開され、説教のある日を楽しみにしています。
振り返ってみますと山本光明先生の説教を伺っていた時には結婚、子育て、多忙な仕事の中にあり理解するのは困難でした。それでも先生はわからなくても説教を覚えておきなさい、そのうちにわかることができる時が来るからと語ってくださいました。
今、嘉納先生の説教を伺って理解できなかったことがよくわかるようになり、引用箇所は違うけれども同じ立場に立って語られていることを感じます。
子供たちが結婚し離れていき、夫婦二人の生活ですが語られた説教を二人で反復して考える時があり、また聖書の御言葉を話題にしたり、同労者の内容や信仰書についての学ぶことができ良い時間が与えられています。
三代の牧師先生の説教を伺うことができ、過去の説教を思い出しながらその中で憩う事が出来感謝しております。
主の弟子たちを思うときに光明先生が説教されたローマ人への手紙12章の1節から3節の個所が頭に浮かびました。それはキリスト教の共同体倫理として献身、自己変革、謙遜が大切であり、私たちもそれに倣うものとしていきていく必要があるということでした。
自身のまわりには多くの祈りの課題がありますが、主の弟子として神の御心は何かをしっかりと見据えて祈りつつ進んでいます。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神の憐みのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として捧げなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新にによって自分を変えなさい。」 ローマ人への手紙12 1-2