巻頭言
— 共に生かされるために —
茂永 和子
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべてに人が認めるのです。」(ヨハネ 13:34-35)
この年も早4ヶ月が過ぎ、このところまで歩みが一つ一つ守られてきましたことを感謝いたします。
私たちの教会では、広く福音が宣べ伝えられるためにもう一つ教会が与えられることを願い、一本杉教会が導かれて3年になりました。その一本杉教会において長谷川与志充先生による「三浦綾子文学講演礼拝」が働きの一つとして行われるようになりました。三浦綾子さんの書かれた作品を取り上げ、長谷川先生による解説とメッセージがなされています。私もその集会に参加させていただき、多くの恵みをいただいていることに感謝しています。これまで取り上げられた作品を数えると10作品ほどになっていますが、3月と4月は「ひつじが丘」でした。私は高校3年生の時に救いを受け、就職のために仙台に来ました。そのとき所属していた教会の婦人の方から一冊の本をいただきました。それが「ひつじが丘」でした。
一度読んで心に残っていた部分もありましたが、今回改めて読んでみると内容はほとんど忘れていました。その内容は決してきれい事ではないリアルな人間が描かれていました。当時信仰を持ったばかりの私に、これから待ち受けている様々な誘惑の中を守られて行って欲しいという婦人の願いが込められていたと思います。
「われわれはともすれば、自分を正しい者のように思い、人を責め、きびしく裁こうといたします。けれども果たして、神はわれわれ人間に人を裁く権利を与えておりましょうか。」
「人間はまことに過失を犯さなければ生きていけない存在である故に、われわれは、ただ神と人とにゆるしていただかなければ、生きて行けない者なのであります。」
と書かれてあったところに心がとまりました。
この本を最初に読んだ時から40年が経ちました、信仰歴が長くなれば整えられて穏やかな性格に変わっていくかと思えば、そうではなく、人を責め、きびしく裁く心を持つ者であることを自覚させられます。
この作品は罪のゆるしの問題を取り扱っていて、ゆるし合わなかったならば、共に生きていくことができないと先生を通して語られました。
それは週ごとの礼拝メッセージ、祈祷会においても同じように語られていることです。
滅びるしかなかった者が、一方的な神様の憐れみによってのみ救われたということをどれだけ自分のものとしているかと常に問われています。
日々の生活の中では一番身近にいる伴侶者や家族、人との関わりの中にあって、お互い調子が良いとき悪いとき、思うようにならないことは多くありますが、神様が与えてくださった大切な一人一人であることを忘れることなく、語られているメッセージに取り組ませていただきたく願います。