巻頭言
— 自分の弱さと向きあって —
森田 初実
「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。
それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ書 6:8)
今年与えられたみことばです。
私はあることを通して自分の弱さを示されました。それは昨年末になりますが叔父宛に携帯電話の交換をすすめる案内の郵便物が届きました。叔父宛にきたとはいえ、私と一緒に携帯電話ショップに行くことになるし、いろいろな手続きは私がするようになるからどんな電話機があるか見てみようという軽い気持ちで勝手に、叔父に手紙を見せる前にあけてしまいました。
開けてっしまってから私は「ハッ」と我にかえるかのように「あっ。いけないことをしてしまった」と心が一瞬で暗くなりました。本当にちょっとした一瞬の出来事でした。私はいけないことをしてしまったと分かりながらも私の心はしてしまったことを叔父に言わなければわからない、私の心の中だけでいい、大丈夫といいきかせるかのようにその手紙をタンスにしまいこみました。それはまさに私は自分のしていることはだれにもわからないだろうと自分の心にその出来事をしまいこむかのようでした。
それは悪い事でるとわかっていてあえてしまいこもうとする、そこにも悪い思いを、つまり罪を重ねてしまいました。その後叔父から「ぼくの携帯電話に電話機を交換する案内を送りましたのでご覧になって下さいというメッセージがきたんだけどどんな手紙きた?」とメッセージの内容を見せられました。私はその時とっさに「そうなの?私はわからないよ」と答えてしまいました。そこにまた罪を重ねてしまいました。私はますます心が重くなりました。
そんな重い心をもったまま家族で教会にお伺いし1年の締めくくりのお祈りをしていただき、新たな年がきて元旦礼拝をむかえました。重い心をかかえたま私は聖餐式のピアノの働きをしていました。
伴奏をしているとき、私は自分が重ねてきてしまった罪の重さに心がとても苦しくなりました。なぜ私はこの大切な働きをもったまましているのかと涙があふれてきました。まず叔父にきちんとあやまろうと思いました。その前にも何度かあやまらなければいけないと思っていましたが、どう思われるか?などと考え込んでしまいました。その心のまよいの中には叔父にどう思われるかというのと神様にどう思われるかということも考えていました。私は以前、一度私の罪を神様に赦していただき、そこから回復を少しずつ与えていただきました。そして教会の中での歩みが許された者なのに「まあ これくらいなら いいか」という私の弱さのため見事に負けてしまったことでした。
でも聖餐式の伴奏をしている時に示された、自分の重ねてきた罪の重さを、やはりきちんと口で告白することが、神様の前に赦しをいただけることであるとちゃんとわかっていました。それは先生の説教のメッセージでも何度も語られ、私は信仰者としてそうなんだと理解し、そこに救いがあり、罪からの解放と、神と共に生きる幸いを経験させていただいてきた者でした。
しかしおかしてしまった罪を告白することは、とてもとても勇気が必要でした。そして私は祈り、神様に助けをいただき、叔父の前に私のした行いを告白し、あやまることができました。叔父は「いいよ。初実に手紙をもらっていたなら安心だったから大丈夫だよ。」といってくれました。
私は告白できたこと、叔父に赦しをもらえたこと、ひとつひとつの助けに感謝いたしました。
そして私はこの出来事を教会の牧師先生にも告白しなければと思いました。私の弱さを先生はご存じではありますが、それでも先生にお話するのにも勇気が必要でした。でも叔父に告白する時に神様が助けて下さったように、神の前で私が真実であるためには、あらためて私の弱さを先生に知って頂くべきであると思い、先生にお話することができました。先生は「神は赦してくださっていますよ。初実さんの弱さも知っておられます。尚、神の前に、生き生きと歩んで下さい。お祈りしています。」と言って下さいました。牧師先生の前に告白することができ感謝いたしました。
年のはじめに私は自分の弱さと向き合い、そこからいくつかのことを示されました。自分のたましいが神様の前にきよくないと日常の生活が重く、苦しいものでありました。大切な働きを心から喜んでできませんでした。もちろん私たちの生活には、問題、課題はあります。しかし自分が神の前に出るにふさわしい者であるか、常に自分の弱さと向きあいながらも神のきよき、真理を求め続けていきたく願います。