同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— レント —

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ書 53:1-3)

 プロテスタントの教会では、レントということばはあまり使わず、受難節という方が多いかと思います。レントはクリスマスと同じく、カトリック教会で始まったものと思われます。日本語への訳語としてレントは、カトリック教会では「四旬節」といい、英国教会(聖公会)では「大斎節」といい、プロテスタント教会では「受難節」というと解説されています。
 イエス・キリストの復活の日から遡る、日曜日を除く40日間、暦日では46日間がその期間で、今年の教会歴では、2月の25日に始まり、4月11日に終わります。4月12日がイースターとなります。
 起源は、4世紀にヨーロッパの人々が大挙してキリスト教に改宗し、教会側の個人に対するフォローが追いつかなくなったため、凡ての人々に復活祭の前の期間に節制した生活を送るように求め、それを持って入信の準備としたということが定着したのだと言われています。
 その節制の内容が、日に1食だけ十分食べ、残り2食は断食する、また肉を控えるということであったようです。
 その結果レントの直前に、あしたから肉は食べられないから、今のうちに肉をたらふく食べ、酔ってどんちゃん騒ぎをするというマルディグラや、カーニバル(謝肉祭)が始まったとされています。私たちはテレビでその様子を見聞きします。真の救いを持たない人々に形だけの節制を求めた結果は悲しむべきものとなりました。
 さて、レントの節季がやってきますが、私たちは形式的なものではなく、まことの敬虔に相応しく主の受難を覚えようではありませんか。
 イエス・キリストに類のない栄光をあたえたできごとは、彼が受難を引き受けなされたことにほかなりません。十字架のみ業こそがイエスの栄光の中心です。十字架にによって彼の父なる神への従順と謙遜、そして人間に対する愛が示されたのです。
 クリスチャンの栄光は、イエス・キリストの心を自らの心とし、彼に似たものとなり、彼の歩まれたように歩むことにあります。イエスの従順と謙遜、そして隣人への愛をめざしましょう。それは、冒頭のみことばのように、世の人々には見栄えのしないものです。けれども私たちクリスチャンのあいだでは、それが高く評価されるべきです。私たち自身がそう見える、値づもることができるものでありたいものです。

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