同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第38回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

2. 旧約における三つの職務の考察(つづき)
2.2 預言者(つづき)

 人の心は、体を通して他の人に示されます。話すことも、行うことも体を通します。教会はキリストの体なのですから、キリストの心は、教会を通して示されます。そしてキリストがご自身の心を示されるのは、世とか社会とかいわれるものに対してではなく、ひとりの人、個人に対してです。ひとりの人に接するのは、教会という団体ではなく、教会を構成するひとりの人です。キリストの心、その働きは、教会に属する一人ひとりのクリスチャンによってなされるのです。
 旧約は新約の具体的な見本です。ですから、旧約の預言者によって示されていることは、新約のクリスチャンに神が期待されておられることなのです。
 イエスは、「わたし(イエス)を見た者は、父(神)を見たのです。」(ヨハネ 14:9)と言われました。そのように、イエスの体である教会、それに属するひとりのクリスチャンを見て、人はイエスを見、イエスを知ることができること、それが新約の預言者であるクリスチャンの課題です。
 神は人を介してみ業を行われることを述べましたが、ご自身を知らせることも神のお働きです。
 ヨセフについて考えてみましょう。彼は、兄たちに奴隷として売り飛ばされてしまいました。彼が父のところに帰りたかったことは、彼が献酌官長に、
「あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。」(創世記 40:14-15)と言って、無実だけでなく、故郷について述べていることからうかがい知ることが出来ます。彼はここでも兄たちの悪を述べず、覆いました。彼は、置かれた立場での仕事をこころを込めて行いました。
 人を使っている者は、使われている人が、心を込めて仕事をしているかどうかを察知するものです。もし、ヨセフが故郷に帰りたい思いのみで、仕事に身が入らなかったなら、パロの侍従長ポティファルが、彼を家司に任じ、家を管理させるようなことが起きえませんでした。
 牢においても同様です。彼の仕事ぶりを見たから、監獄の長は彼に牢の管理をさせたのに違いありません。彼は小事に忠であったからこそ大事をまかされました。そしてそれが、パロに神を示す機会となりました。
「そこでパロは家臣たちに言った。『神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。』」(創世記 41:38)
 イスラエルから拉致されて奴隷となり、ナアマンの妻に使えていた若い娘のことが列王記に記されています。親族は殺されてしまったか、何も書かれてはいませんが、きっと故郷に帰りたいと思ったことでしょう。しかし、彼女も自分の置かれたところで、神を信じて生きました。彼女はイスラエルに神の人である預言者がいることを知っていました。主人であるアラムの将軍ナアマンがツァラアトを病んでいることを知って、こう述べました。
「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」(列王記 II 5:3)そのことばをナアマンは信じました。またアラムの王も信じて、イスラエルの王宛てにナアマンのための依頼文を書きました。
しかし、イスラエルの王は信じていませんでしたので、アラムの王が難癖(なんくせ)を付けてきたと思って衣を裂いて嘆いたのでした。
 預言者エリシャはそれを知って、王に伝えました。
「神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。『あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。』」(列王記 II 5:8)
 預言者がいると知ることは、神がおられることを知ることです。事実、ナアマンは癒されて、こう述べました。
「・・神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。『私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。・・』」(列王記 II 5:15)
 預言者がいるということは神がおられることでした。
 世の人は教会の建物を見て、ああここに教会があるといいます。しかし建物だけでは、彼らにとっては、単にいわゆる「宗旨が違う」というだけで、神社仏閣と区別がつきません。教会の中に足を踏み入れて、そこにいる私たちクリスチャンひとり一人に接したとき、真の神がおられたと知る、そのようなものたちであることを神が望んでおられることは言うまでもありません。私たちの置かれているその場で、信仰をもって生きるなら、キリストの体である教会の一員として、神は栄光の機会をお与えになることでしょう。
(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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