同労者

キリスト教—信徒の志す—

人物伝

- 山本岩次郎牧師の思い出(12) -

秋山 光雄

第2部  荒川教会週報抜粋集(つづき)

【1954(昭和29)年7月4日】消息欄

 △主牧は21日12時半発で長岡教会の御用。5回にわたる集会で「信仰に就いて」語った。活ける働きのある信仰を与えられたもの。多い時は25、6名。試練を経た教会、夫人を迎えていよいよ充実した教会たらん事を祈った。24日朝お別れし、佐渡の母を御見舞ひする。床に就いたきり、主のお迎えを待っている「祈って呉れ」と何遍も要求される。アーメンと唱える。八十幾年偶像教徒の彼が今は其子の伝えるイエス・キリストに祈る姿は其子の長い間待っていたもの、いつか涙を誘われた。例の通り一回の集会を町でする。純福音に渇いている彼らを見る時佐渡伝道の急務を祈らしめられる。

【1954(昭和29)年8月1日】母の告別式

 18日の聖日を前にして色々と礼拝のメッセージを黙想している16日の朝「ハハキトクオイデマツ」の電報を受取る。7月下旬長岡教会の聖会を終えて一寸の時を与えられ二夜、彼の枕辺にはべり幸な祈りの時を与えられたが其時既に「長くない」と知らされて帰京したが20日間の時を延ばされ急ぎ子供らをも連れ留守の教会は勿論主の手に又信頼する役員の兄姉に託ねて其夜上野を発った。17日午後3時彼の枕辺に座し一人一人握手。
 祈り感謝する。長い間偶像に仕えた身であったが先日訪問の時「天の神様の処へ行けるよう祈ってくれ」と云われ祈り終えるとアーメンと和すことを知っていた彼。幾日か前に子供らが「亡くなったら葬式は仏教か基督教か」と聞けば「岩次郎がやると云ったら基督教でやれと云われたと云われる。彼の信仰故に基督のものであると信ずることの出来る筆者には悲しみよりむしろ深い感謝が湧いて来る。
 通夜の式には筆者の入信のあかし尚伝道者としてのあかし、がん固な伝統の中でいち早く筆者を理解し励まして呉れたのは「この母」であったと説き告別式は村の公会堂で300人程集まった(始めての事で見物人が多い)人々に基督による幸福の原理を説く。いつか告別式を忘れて拍手が起こる。母の告別式を通して遂に30年近い基督者生涯しかも伝道者としての覆面を近親者を始め郷の人々の前にぬいだのであった。彼が己が愛する者の為に自らのなきがらを通して福音の証しをなさしめた。彼は生涯貧しかったが一貫して其死に到るまで為し続けて止まなかったものは実に「受くるよりも与ふる事」であった。彼は之を実践して幸福であった。其なきがらまで其子に与えて遂に自らもアーメンと云って死んだ。迫って来るものがある。「彼の生涯に続け」と。

 (以下次号)

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