同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 土台 —

森田 心

「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。」(ルカ 6:48)

 今年も残すところあと3ヶ月となりました。1年の初めには、与えられた御聖言と目標を掲げて歩み出しをしました。
 若い人達にとっては、1年の間に初めて直面する出来事がたくさんあるでしょう。しかしその中を通って生きてくると、歳をおうごとにだんだんと目の前の壁を上手に通り抜けていく方法を見つけていきます。乗り越えられないと見ると、別の道を探し、またそこを乗り越える為に向き合う大切な時間さえも価値高く持ち続ける力も薄れてしまう事が起こってきます。
 けれども、たとえそのような中にあったとしても、私には1年に1回新たに奮い立たされる場所があります。それは信徒説教の御用です。
 私共の教会では、今、婦人伝道師の先生方お2人と信徒7人合せて9人が立っております。私もその1人に加えていただき、先月その務めに立たせていただきましたが、これで私の信徒説教の御用も10年を迎えました。10年の節目は、自らの中で大きな区切りの時である事を感じます。
 私はその御用に当たり、ここ数年“教会とは”というテーマを持ちながらメッセージをさせていただいてきました。特に今年は、礼拝の説教に生きてきた者として、教えられた土台を据え、土台から離れずに歩むことの大切さを語らせていだだきました。そしてその場所は借り物では出来ない、神の前に真実である証しの時であり、また挑戦の時であり、新たにそこから歩み出す約束の時であり、私にとっては幾度立っても足が震えるほどに緊張と畏れを持つ所です。けれども、そこを通過させていただいた時に、いつも自らに与えられている十字架を憶え、なお高嶺を目指して進ませていただこうと思わさせられます。
 僅かな時間の中にまとめて語る言葉には十分と言えない部分を残します。けれども講壇からおりて、又、信仰の仲間と取り組む時に、特に若い方々との交わりの中にその不足を補っていける働きの場も与えられており、感謝しています。
 今年も残された月日の中で計画されている一つ一つの働きを大切に喜びと感謝をもって主の聖名を讃美していけることが出来ますように祈りつつ歩ませていただきたく願っています。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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