同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

社会人キリスト者の初歩
-神との真の関係-

石井 和幸

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
(ルカ18:10-14)
「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行い、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」
(エペソ6:5-7)

 ある日、私が勤める工場に客先からクレームの電話がありました。「先日、おたくのAさんとBさんに説明して頼んだ仕事が、こちらの指示通りではなく、問題になっている。どうしてくれるんだ!」・・私は一言お詫びをして電話を切り、まず職人のAさんに事情を聞きました。すると、「客先の指示通りやったので、客先が悪い」 と答えが返って来ました。さらに詳しく聞いてみると、Aさんは言い訳のようなことばを並べました。私は、これでは真実が見えないと思い、Bさんのところに向かい、客先からどういう指示を受けて、指示通り出来たのか、極力プレッシャーを掛けないように聞きました。 するとBさんは、「最後の仕上げ工程で、客先の指示は誤っていると判断し、Aさんと相談して違う仕上げにしました。僕たちの間違いでした。申し訳けありません」と私に謝りました。
 その後、反省会をしました。私の反省は・・・客先からAさんたちにされた説明を、出先から工場に戻って来た際ちゃんと把握するべき、チェックするべきだった、管理不徹底でした。 そしてAさんとBさんの反省は、疑問があったら勝手に判断せず、親方か営業担当の私、もしくは客先に直接質問をすることでした。
 このクレーム処理において、益となる答え、行動をしてくれたのは言うまでもなくBさんです。けれども、私はAさんがとった言動・気持ちが痛いほど分かりました。なぜなら私もサラリーマン時代、Aさんのように、上司のごきげんをうかがい、不都合は多少作文してでも知られたくない・・
・と考えていたからです。 上司からは、「最初から事実の通り報告すればいいのに、こっちから質問するとどんどん内容が変わっていく。ワケが分からないヤツだ」と 言われました。私はそのたび、自らの弱さ、罪深さを痛感していました。
 また私は独身時代、結婚を祈り求めていた時に、牧師夫妻にこのような話をされたことがありました。 「あなたの話はよく分からないから、今日は私(牧師)と家内(婦人伝道師)で、二人であなたの話を聞くことにします。」 「あなたは、何を考えているのかこちらがよく把握できない。あなたは喜んでいるのか、それとも本当は悲しいのか、懸念をもっているのか・・・牧師と信徒の間で、ある程度の距離、壁を作りながらでも、たとえ心が通じ合えなくても教会で信仰生活は営めるかもしれません。でも本当にそれでいいのですか?なぜあなたは、神様のかいなの中に素直に入ろうとしないのですか?」 真の人間関係は、偽りや、その場しのぎの言い訳、おべっかによって成り立つのではなく、お互いを敬い、信頼し合うことによって成り立ちます。結婚という大事な問題を牧師と取り組むのであれば、なおのこと不誠実・不真実ではなく、キリストによる愛の関係が必要です。
 実はBさんは私とずっと教会で共に信仰生活を営んでいます。私が何をもって価値判断をするか良く知っています。 私は、これからAさん、Bさんたち・・・会社の従業員に対し真実を尽くし、基本的な価値判断に一貫性を持って、Aさんが言い訳やおべっかを使わなくても、私と心が通じ合えるようになればと願います。

 私が関わっているキリスト者学生会(KGK)では、学生が卒業し、社会人キリスト者として「証しをたてていく」とはどういう事か? また、「神の召し」は自分にとって何か? ということが度々話題にあがります。 そのたびに先輩としてスタッフがアドバイスすることは、まず神と人の前に謙遜に歩むこと、そして「やりたい仕事」ということよりも、与えられた持ち場、仕事に一生懸命取り組むこと等です。 このことについては、「クリスチャンの職業選択 (山崎龍一著 いのちのことば社)」 「働くことの意味 (D・M・ロイドジョンズ著・いのちのことば社 」等の本に詳しく書かれています。

 新年度、4月を迎えました。この時、私は自らがキリストの十字架によって、神との和解を与えられて今も活かされていることを覚え、感謝しています。 神との関係において、また私の小さな家庭と歩みを共にする教会に対し、言い訳も、おべっかも全く必要がありません。 これからも、なお神と人に対し、真実である家庭を築かなければなりません。 いよいよ娘も、親の口真似をするようになりました。 何か食べる前は、「えーと、アーメン」 都合が悪くなると、「痛いよー もう!」先日は、電話の受話器をもって、ケラケラ笑ったり、「うん、うん」とうなずいたりしていました。 親である私たちは、なお神の前にへりくだり、みことばに生きて、この小さな魂にも証しをする者であるよう、祈りつつ取り組んでいこうと思っております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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