同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

神の召しに生きる最善

石井 和幸

「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」(へブル11:24-26)
「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)

 私は独身の頃、聖泉連合のサマーキャンプや、また教会キャンプに出席する親子連れ、家族を見ながら、(まだ子どもが小さなうちから泊りがけの集会に参加するのは、大変だなぁ・・・)と感じていました。特に食事の時、いつもと違う食卓の光景、ところかまわず食べ物を散らかす子ども、それを制止する親・・・私が同年代の友人たちと楽しく食事をするのとは対照的に、時には厳しい顔つきで、粘り強く子どもと接している一家を見ながら、失礼ながらも、(この人たちはキャンプをエンジョイできているのだろうか?)と思ったりもしました。それでもあえて旦那さんだけキャンプに参加・・・ということをせず、幼子も含めて家族全員でキャンプに参加する姿は、それ自体証しでありました。いつか自分もクリスチャンホームを与えられ、キャンプに家族で参加したい・・・そんな希望を持つことが出来ました。
 5月の教会キャンプ、今年も一泊二日で私と妻、1歳7ヶ月の娘、計3人で参加することになりました。私が独身時代に抱いた(この人たちはキャンプをエンジョイできているのだろうか?)という問いかけが自らに降りかかることになるわけですが、参加して私は、そんな心配は杞憂であることが分かりました。
 理由のひとつは、親である私たち夫婦が神の前に決意をもってキャンプに望んだからです。与えられたゴールデンウイークのひと時を、神の家族、教会と喜びをともにする決意です。食事の時、娘が騒いで、食べ物を散らかすことになったとしても、自分がそれを制止するのは親の役目であり、神の召しなのです。家族同士が関わりをもち、そして教会を通して訓練と恵みを受けるのは神の召しなのです。
 もうひとつ大変感謝なことは、牧師先生方をはじめとする教会の多くの兄姉が、愛をもって娘と関わってくださり、面倒をみてくださったことです。娘を神の導きに委ね、教会の働きに献げていく素地は、真実の愛が注がれているところにあることを大変感謝に思います。
 私に示された神の召しを思う時、不思議な導きを感じます。なぜなら、私は数学や理科が嫌いです。計算や物理など、考えただけでイライラしてきます。私は人と接し、その場の空気をよみながら自ら仕事を抽出していく・・・そんなことは苦手です。できるならひとりで、手抜きをしていたい・・・というのが私の本性です。設計・・この物はどういう仕組みで動くのか?・・ そんなことを考えるのは面倒で嫌です。だいたい私は小学生の時、図画工作は2以上の成績をとったことがありません(笑) けれども、今私がしている仕事はこれらすべてを駆使しなければなりません。私が牧師とクリスチャンである親から教えられ、受け継いだこと、それはこの世を乗り切る知恵でもなければ、お金もうけをするための方策でもありません。まず神の召しに従う信仰です。それゆえに私は今召されたところで、責任を果たすために生きています。幸いなことに、私の足りないところを補完し、ともに労苦を担う助け手が与えられていることをとても感謝しています。やりたいことをして上手くいくよりも、実は嫌なことを成し遂げたほうが幸いであり、そこで育成がなされ、嫌なことがやがて嫌ではなくなり、土の器であっても神に栄光を帰することができるのです。
 5月の半ばに、家内が教会のある集会にて証しをしました。その一部を紹介します。
「教会の中で、子育てについてもいろいろと教えられています。私は本やマニュアル等に影響されやすいところがあって、それもいいとこどりというか、自分の気に入った考えを正しいと思いやすいところがあるのですが、『あなたは本にこう書いてあったとか、お医者さんがこう言ってたとか、マニュアルに頼りすぎるところがあるけれど、あなたが育てるのは「神に従う子」なのだから、教会の先生方に従うこと、また、先輩方に教えていただくことが大切です』ということを(婦人伝道師の)先生より教えていただきました。これが、私の中ではなかなか難しいことで、自分で納得したマニュアル等が、いいとこどりのこともあってか、ともすると先生方に教えていただいたことよりも正しいように思えてしまうこともあり、ゆらいでしまうようなこともありました。特に娘が泣いた時に、娘のもとに行くのが早すぎることを指摘されたときは、「だって本には『なるべく早く対応せよ』って書いてあるし・・・と、心の中で言い訳してしまっていました。このことは家庭集会にて指摘されたのですが、主人に対して言われた瞬間、ベッドルームにいた私は扉の前で固まってしまい、『行ってもいいですか・・・?』というオーラが出ていたと思います。今は、寝言で泣いてすぐ寝ることも結構あるんだ、とか、ちょっと泣いてみたけど大丈夫だったということがあるんだとわかってきて、「少し様子を見る余裕が、私の方に必要だったんだ」ということがわかってきました。このことを通して、マニュアルではなく、神様の前に、先生方の前に従っていくことがいかに大切かということを実感したことでもあります 。」
神の召しに従う信仰とは、神から示されたことを最善と信じ、同労者と取り組むことであります。私にとって「子育て」は大変ではありますが苦痛ではありません。自分がそれに携われるのは喜びであります。けれども、私たち夫婦の思うままに子どもを育てるのではなく、「神に従う子」を育て、自らも神の前に成長していくことが、神の召しに従う信仰生活であることを確認した5月でありました。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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