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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—10

 12月も変わらずに聖書を学ぶ会が開かれ、締めくくりの時もう一度みことばに仕える時が与えられましたことを感謝いたします。

 この年エステル記からメッセージが語られ続けてきました。
森田心兄から「メッセージで布石の話がなされ前に置いておいたものが後で役に立つということを聞きましたが、先生は何を期待して語られたのか、その意味合いを。」という質問がなされました。

 先生はそれに対しての考えを持ってはいるけれども今はとどめられている部分もあると語られましたが一つ一つ大切な事柄を語って下さいました。布石は囲碁の対局で用いられる用語ですが、私たちが将来を見据えて霊的戦いをどう進めていかなければならないのかという課題にも当てはまります、と。それと礼拝のメッセージでも語られたことを織り交ぜながら書かせていただきたいと思います。
 布石は打てるタイミングというものがあり、せめぎ合いの時には打てない。布石は戦いの序盤になされるもので何も考えずに置くものではない。一つの戦い、働きを終えたとき安堵しやすいが、その時、次の布石を打つことができるか。二三手遅れたことをどう取り戻すことができるか。エステルがアハシュエロス王にユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することをもう一日求めたのは見事な布石であった。神を信じるという中に勝利していかなければならない。また捨て石というものがあり、主イエスご自身が捨て石として地上に来られた。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46) イエスキリストは神に捨てられた。私たちは何を捨てて勝利していくことができるのか。安易な答えはでないがキリストの贖いの価値を知り、自らがどれほどに値積もられている者であるかを知ること、聖霊の導きに従っていく事の大切さを語って下さいました。
 一年間、メッセージの中に養われてきましたことを心から感謝いたします。

(執筆担当 茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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