同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 息子たちへの信仰の継承を願って —

森田 初実

「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル 12:11)

 今年も早いもので、2ヶ月が過ぎました。そして大きな地震があってから1年が経とうとしていますが、日々の生活が守り導かれていますことに心から感謝を覚えます。
 上記の御言葉は今年私に主が与えてくださった聖句であります。私自身日々主の訓練の中におかれていますことを強く感じ、しかし、その訓練こそが神様の大いなる愛であることをおぼえ感謝しています。
 私の歩みはとても遅い者でありますが、神様が共に育んでくださる中で、現場として三人の子供達との取り組みを与えてくださっています。三人とも息子であります。それぞれ個性があり、だんだん大人として成長しているので、私自身が子供達から教えられることもしばしばあります。成長して体も大きくなってきておりますし、心のケアもむずかしい年齢です。
 長男は去年7月に救いの経験をいただき心から感謝いたしました。長男は神様と出会ったことによって神様と自分との1対1の関係がスタートしたわけですが、私も神様との1対1の関係を大事にして、また神様を第一にする生活を選び育ませていただいていることであります。
 その過程の中にあります時、教会の先生の息子さんの大学推薦の試験がありました。私は小さな祈りではありますが祈らせていただいておりました。そして彼のお母さんである婦人伝道師の先生は私に、「私の心の中にある讃美は、<みなささげまつり>(インマヌエル讃美歌317)です。すべて主のもの、息子も主におささげします。<うたがわで勝ちを得よ>(同480)ですね。」という内容のメールをくださいました。私は正直、自分がはずかしくなりました。私は愛する子供たちにも神様と共に歩む道を選んでもらいたいと願い、祈っておりますが、先生が告白された信仰が私にはなく、主に子供たちをおささげし、ということが私にはできないと自分自身につきつけられたように思われました。しかし、私自身が主と共に歩むさいわいを経験させていただいておりますし、神様の愛の中に生かさせていただいているすばらしさを子供達にもと願いながらも、私は自分勝手さによって心から神様におゆだねしますということが出来ていないと示されたことでありました。私はどうしたら先生のような信仰をもつことができるのだろうか、私は先生に自分の思いをお話ししました。
 そうしましたら先生は一言「<我がものはなし>よね。」とニコっとされました。先生の話されたお言葉は「みなささげまつり」の讃美歌の詞です。
 私はその時から「みなささげまつり」(前掲317)の讃美歌を口ずさんで、先生の信仰告白が私にもできるようになりたい、わかるようになりたいと願いました。
 私の心の中にもこの讃美歌によってはげまされることが多くなりました。
 神様が私のたましいに与えられた現場を通して訓練され、時には愛をもって、時には厳しく、私を取り扱われることであります。私は神様に愛される者としてふさわしい者ではありません。欠けの多い者ですし、自分勝手なわがままの多い者ですから。しかし、神様と共に歩みたいと願う時に、愛をもって応えてくださいますから、私は歩みの遅い者ではありますけれども、今立って神様と共に歩むことをゆるされております。愛する者に信仰を継承していくために、週ごとの礼拝メッセージで、強く語られております。教会全体でこのことが強く祈られています。私は現場が与えられていることに感謝しつつも、恐れも強く感じます。しかし婦人伝道師の先生が、私に告白してくださったように、私もそこに信仰をもち、神様にすべてをお委ねして愛する者のために日々ひとつびとつ大切な取り組みをさせていただくことを願うことであります。
 牧師先生が集会の中で私たちに問いかけていらっしゃいました。それは愛する家族が皆天国で会えることを望みませんか?」と。私は望みます。そのためには神様の細きみ声に聞き従い、仕えさせていただきたいと思っております。

石井謙悟

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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