同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 説教に生きる —

玉城 憲一

「『さあ、来たれ。論じ合おう』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」(イザヤ書 1:18)

 今年、2012年、教会に与えられたみことばは「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」(ローマ:1:17)です。私たちの教会では、今年は、イザヤ書が開かれ、そこから礼拝のメッセージが語られております。説教のメモをとらせていただきながら、その内容の一端を私は以下のように捉えさせていただきました。
 イザヤはユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代の預言者でありました。当時の状況のなかで、これらの王たちとイザヤが係わりながら進んでいったことを通し、一貫性、聖域、主観、共生・・と学ばせていただいています。
 一貫性は、どのような時にも神を信じ、神から離れず、どのような状況に立ち向かうときにも、変わらない姿勢で事に当たることです。
 聖域とは、神の前に行ってよい範囲がそれぞれの職務によって定められており、自分にとっては、そのやってよい範囲が聖域です。当時、王と、取り巻きの家臣たちと祭司たちの関係が問題でありました。ダビデ王家は、アタルヤによってただひとりを残して全部殺されてしまったので、弱くなりました。ですから、家臣たちによっていいように政治がなされる時代がありました。しかし、ウジヤの時代には、王家が強くなりました。そして家臣たちを従えることができました。ウジヤ王にとって、自分の権威が及ばないのは、祭司たち、祭司職でした。そこで彼は神殿に入り、香を焚こうとしました。祭司の領域を自分でもできることを示そうとしたのだと思います。ウジヤ王は聖域を守ることができませんでした。彼は自分の聖域をまもらず、祭司の聖域に踏み込もうとしました。「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、・・彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿にはいった。・・・ウジヤは激しく怒って、手に香炉を取って香をたこうとした。・・主の神殿の中、香の壇のかたわらで、突然、彼の額にらい病が現われた。」である。」(II 歴代誌26:16-20) そのとき主が彼を打たれ、突然彼の額にらい病が現れたのでした。私たちにも守っていかなければならないものと、踏み込んでいってはいけないものがあります。
 主観とは、普通神の御旨と呼んでいることに相当しますが、御旨は神のみに使われることばで、人の側にはつかいません。ですからこの説教では、神と人の両方に使うことばとして主観ということばを使いますと語られました。たとえば罪を犯したとき神の側でそれをどう見るのか、そこに神の主観があります。それは自分で判断することや人がどう見るかとは違うことがあります。私たちは絶えず神の主観を受け入れ、御旨にそった生き方をすることが大切です。
 キョウセイには、強制、矯正、共生と三つの意味があります。強制とは、やりたくないような事をやらせることであって、矯正とは曲がったものを後で治す、良い方向に向きを変えさせる意味です。共生とは共に生きることであり、悲しみを分け合い喜びの時は共に喜ぶ、イエス・キリストが私たちと共に生きて下さるように、私たちも隣人と一緒に生きていくことです。

 この三つを通して私たちの信仰が建て上げられていきます。その目指すところは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39)です。
 去年、長男が結婚し、今年は孫が誕生し、名前がヘブル人への手紙11章13節から「信人」と名付けられました。感謝であります。息子が結婚できたことは、彼の独身生活の事を考えると、これは神の奇跡である、と思われる事です。彼は、仕事は休む、集会は休む、調子が良いと思うといつ休むか分からない。何回教会に悔い改めに行ったことでしょうか。そのたびごと、山本嘉納先生に祈ってもらって、会社も元に戻して頂いて・・・。どれだけ人に迷惑をかけた事でしょうか。私は整った信仰生活をさせようと彼を叱って、集会を休まないよう強制しましたが、なかなからちがあきませんでした。しかし、神の憐れみと先生はじめ兄弟姉妹の祈りに支えられ、守られ、結婚が与えられました。良き伴侶を与えられ、彼女の強い後押しをえて、矯正に導かれました。今は集会も休むことがなく守る事が出来るようになりました。会社の方にも信用されているようです。
 先日の礼拝説教で先生から、息子が彼につづく青年たちとの間で共生させていただいており、彼らから評価されていることを語っていただいて感謝しました。引き続き与えられた家族、そして教会の皆さんと一緒に歩み、共生、共感していってもらいたいと思います。
 私自身も、集会出席を大切にして行きたいと思っています。そのためにも体調を整え、信仰生活を励んでいきたく願っています。
 礼拝のメッセージによって恵をいただき、守られてここまでくることができました。
 感謝であります。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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