同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— GEMSの劇に参加して —

齋藤 恵一

「イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。』イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。イエスは彼に言われた。『気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。』」(マタイ8:1-4)

 先日、仙台聖泉キリスト教会で、若い人達による劇がなされました。
 それは、イエス・キリストの生涯を題材にした劇です。高校三年生の若者が監督になり、忙しい時期にも拘わらず一生懸命作り上げた劇です。劇の内容は、イエス・キリストの降誕の場面、イエス・キリストが12才の時に交わした律法学者との問答の場面、洗礼者ヨハネにバプテスマを授けてもらう場面、そして最初の奇跡と言われているカナの婚礼の場面、大きく分けてこの四つの場面が演じられました。
 私もカナの婚礼の場面で給仕する召使いという役で出演させて頂きました。今回、この場面についてお話ししたいと思います。このカナの婚礼の場面では、主人公であるイエス・キリストは姿を現しません。イエス・キリストの奇跡を見た召使い達が驚きと共に、他の者達へ伝えていこうとする所を中心としているからです。私はこの奇跡を見た召使いの役でした。演技では、驚きあわてふためく様子や、他の役の方との掛け合いの難しさを覚えましたが、それ以上に最後の決意のセリフに悩みました。その決意のセリフというのは、召使いがイエス・キリストの福音を伝えて行こうと決意するセリフです。最初は驚きと興奮で誰かに話したいという感じですが、しばらくして冷静になってくると、召使いは、この福音は何も自分達が伝えなくても良いではないか、先生と呼ばれるような権威ある人達がいるではなかと頭を悩ませます。しかし、その考えを打ち消して、私達はただ事実を伝えればいいんだと結論付けて終わるという所なのですが、終わり方としてハッピーエンドでもなければ、バッドエンドでもない、何か戸惑いながら、でも伝えて行くんだというギリギリの終わり方でした。練習でも、これで良いのかと戸惑いながら演じていたので、不格好な形で終わっていました。すると、在るときそれを見ていた教会学校の先生が、こんな事を教えてくれました。「これは私達そのものなんだよ。これで良いのかな、あれで良かったかな、と悩み、不足を感じながらも取り組み続けているんだよ。だからもっと戸惑いながら終わっても良いと思うよ。」それからは、演じ方は変わりませんが、心の内ではこれで良いんだと納得して演じることができました。
 何かに取り組む時には迷いがありますが、信じて取り組むことが必要だと劇を通じて教えられました。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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