同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第68回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.1 新約の祭司(つづき)

  祭司が自分に委ねられた人々のために祈りをもって神の前に立つことは「とりなし」と呼ばれます。キリストの祭司の務めはこの「とりなし」と重ねて記されています。
「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル 7:25)
 旧約の祭司の項で学んだことですが、新約の視点でもう一度大祭司の衣装について、特にエポデの肩当てと胸当てに取り付けられた宝石ついて考えてみましょう。
 肩当てには左右それぞれにしまめのうの玉がひとつ取り付けられました。その一方にイスラエルの6部族の名が、もう一方に残りの6部族の名が刻まれました。胸当てにはイスラエルの12部族を象徴する12種類の宝石が取付られました。大祭司はイスラエルの12部族をその肩に負い、心に刻んで神の前に立ちました。
 旧約の大祭司は、全イスラエルを取りなすために神の前に立ちました。新約の大祭司イエスは、ご自分の教会のために父の前に立っておられます。
 私たちはそれぞれが神から委ねられている人々のために、とりなしをする人として神の前に立たなければなりません。牧師は自分に委ねられている教会員すべてを肩に負い、その心の重荷とすることでしょう。同様に信徒特に男は、自分の妻と子供たちを負い、心の重荷とするでしょう。長老・役員や教会学校教師など教会の様々な役職についている人々は、その務めに応じてそこにいる人々を負わなければなりません。
 私たちが負うようにと求められているそれらの人々は、各自独立の人格であって、おのおの自分の心に従って生きているわけですから、負う側の人の思い通りに、神の前に福音に相応しく歩んでくれるようにならないケースが多々あります。それは、負う人の重荷を重くし、神のみ手を動かしていただくための神との格闘・・祈り・・を激しいものとします。皆さんの多くが家庭を持ち、家族を委ねられていることでしょう。子どもたちは救われましたか?どのくらい神の前に整えられましたか?神の働き・・教会の働き・・をどれだけ担ってくれる人になりましたか?と問われるとき、私たちはその不十分さに、ただただ口をつぐむことになるでしょう。しかし、そうであるからこそ、とりなしの意義があり、神の約束がそこに付け加えられています。パウロが、
「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」(ガラテヤ 4:19)
と述べたことは、彼がガラテヤの教会のために、神の前にとりなしをしていることを意味しています。子供を産んだことのあるご婦人たちは産みの苦しみをもっともよく知っているでしょう。その苦しみのように、神の前に苦闘して、自らに委ねられた人々が福音に相応しく整えられるよう彼らの上に神の業がなされることを求めるのです。神はご自分の業を人の信仰と祈りによってなすと決めておられるのです。
 もちろん、信仰によって私たちが行うことは、神のご命令によるのであって、それと違うことをしていてはなりません。たとえば、出エジプトのとき、祈っているモーセに神がこう仰せられた記事があります。
「主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。」(出エジプト記 14:15)
祈っているのではなく、行動せよ、これが神のモーセに対するご命令でした。
一方、祈りをせよとのご命令もあります。
『シオンで角笛を吹き鳴らせ。
 断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。
民を集め、集会を召集せよ。
老人たちを集め、幼子、乳飲み子も寄せ集めよ。
花婿を寝室から、花嫁を自分の部屋から呼び出せ。
主に仕える祭司たちは、
神殿の玄関の間と祭壇との間で、泣いて言え。
 「主よ。あなたの民をあわれんでください。
 あなたのゆずりの地を、
 諸国の民のそしりとしたり、
 物笑いの種としたりしないでください。
 国々の民の間に、
 『彼らの神はどこにいるのか』と
 言わせておいてよいのでしょうか。』」
(ヨエル書 2:15-17)

 神が示される、私たちのなすべきことを的確に把握できることが求められます。
まず、私たちは自分の使命をもう一度よく確認しましょう。私に委ねられているのはだれなのか、そして自分が、そのひとのために神の前に立つとりなし手である祭司であることを悟りましょう。それが心の重荷となり、祈る力となるに違いありません。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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