同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第65回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.1 新約の祭司(つづき)

 ヘブル人への手紙の記者は、旧約の幕屋あるいは神殿に代えて、真の霊的な幕屋すなわち教会と信者個人が神の聖所となったことを述べていることを取り上げました。
 旧約の聖所には、契約の箱、贖罪蓋、灯台、パンを備える机、香炉の壇などがあったことが示されていますが、その意味の詳細は語られていません。しかし、それらは私たちの直感にうったえるものであって、私たちは、イエスがご自身について語られた、「私はいのちパンである。世の光である。」、等々のことばからそれを考察することができます。しかし、ここでもヘブル人への手紙それらは割愛致します。そして次のみことばについて考えてみましょう。
 大祭司が神の前にでるときは、ささげる物をもっていなければならなかったことに関してです。
「以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。」(ヘブル8:1-3)
 旧約の大祭司が持って神の前にでたものは、犠牲の血でした。
「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。・・・
 キリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:7-12)
 あらためて説明するまでもなく、私たち皆がよく知っているとおり、イエスはご自分の血をささげ物とされました。
 旧約の時は、繰り返し犠牲の血がささげられましたが、イエスのささげ物はただ一度で、永遠に贖罪が全うされました。この点についても解説がなされています。
「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」(ヘブル7:27)
「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。それも、年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは、ご自分を幾度もささげることはなさいません。もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」(ヘブル9:24-26)
「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」(ヘブル10:12-14)
 イエスの体がただ一度ささげられ、その血によって贖いが永遠に全うされて、繰り返す必要がなくなったことは、ヘブル人への手紙の中にこのように繰り返し強調されています。
 私たちは、イエスの体としてそのイエスの祭司職の実現を担うとしたら、私たちの仕える神殿はどこにあり、何を手にして神の前にでるのでしょう。それはいままで述べてきたことの中に回答があります。私たちは教会において、また神殿である私たちのなかでその職務を務めるのです。そしてささげる物をあらためて用意するのではなく、イエスの血の力を私たちが行使することによって仕えるのです。
 もし私たちが、神の聖に与るものとなり、潔く生きているのでなかったら、どうしてそのようなことができるでしょうか。
 新約の祭司職への任命は、神が私たちにそのように生き、キリストの体としての役割を担うことを期待しておられるということにほかなりません。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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