同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第70回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

3. 新約における三つの職務の考察(つづき)
3.1 新約の祭司(つづき)

 「また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。・・また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。・・これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。」(黙示 20:1-3、4-6)
この記事には、キリストの再臨の後、千年王国があること、私たちキリスト者が王と祭司となることが記されていると理解されています。今の世では、私たちは目に見えない霊的な祭司を務めるのですが、千年王国が到来したとき、実際の祭司をつとめることでしょう。現在の世は、実に多様性に富んでいるといえます。ことば、人種、国、文化、食物、娯楽、貧富、犯罪や病気・・実に多様です。アダムの時、ノアの時、アブラハムの時、ダビデの時、そしてイエスのおられた時代・・と比べて、今の世はなんと多様なことでしょう。そのように人間の世界は多様さが増えこそすれ減ってはいかないと思われます。千年王国の世は現在の世よりも一層多様であることでしょう。サタンの活動がやむので、「罪を除いて」のことですが。
 聖書を読むとき、直接明確に書かれていることと、直接書かれてはいないが、類推できることとがあります。どのことは明確でどのことは類推か区別しておかなければなりません。以下は類推に当たります。 旧約の祭司のところでも述べましたが、イスラエルの過越と五旬節の祭が、イエスの十字架とペンテコステに対応していたことから類推して、マッキントッシュが指摘しているように、仮庵の祭が千年王国を示していることでしょう。イスラエルが出エジプトし、カナンに入っていく記事について、今の世をエジプトで象徴し、新しい天と新しい地が到来する天国をカナンの地で象徴するという見方があります。仮庵の祭は、出エジプトした時のできごとを思い起こさせるものです。千年王国は真の天国に至る前に、地上の生活を振り返るものとなることでしょうが、真の天国に比べれば千年王国すらも種を入れないパンに苦菜を添えて食べるようなものなのでしょう。その時私たちは祭司を務めることになります。
 私たちは信仰の人々に倣って「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれ」(ヘブル 11:16)、主にお会いできるように、「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求め」(ヘブル 12:14)ましょう。
 「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、 イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」(ヘブル 13:20-21)
3.2 新約の預言者
 「預言」というとき、私たちにありがちなことは、サムエル記に、昔は「預言者」と言わず「予見者」といった(I サムエル記 9:9)とあるように、私たちも先のこと、これから後に起こることを「預言」と思うイメージを持つことです。預言者はこれから先に起こることを告げる人という発想から抜け出さないと新約の預言者は理解できません。預言者は「神から神のことばを託された人」と理解するとよいでしょう。
ダビデがナバルの刈り入れの時、若い者を派遣していわせました。
「あなたに平安がありますように。あなたの家に平安がありますように。また、あなたのすべてのものに平安がありますように。私は今、羊の毛を刈る者たちが、あなたのところにいるのを聞きました。あなたの羊飼いたちは、私たちといっしょにいましたが、私たちは彼らに恥ずかしい思いをさせたことはありませんでした。彼らがカルメルにいる間中、何もなくなりませんでした。あなたの若者に尋ねてみてください。きっと、そう言うでしょう。ですから、この若者たちに親切にしてやってください。私たちは祝いの日に来たのですから。どうか、このしもべたちと、あなたの子ダビデに、何かあなたの手もとにある物を与えてください。」(I サムエル記 25:6-8)
 ナバルの前に立ったのはダビデの若い者たちでしたが、これはダビデのことばです。同様に、私たちの前に立つのは「人」ですが、神に神のことばを託された人が語るときそれは「神のことば」であるのです。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

Valid XHTML 1.0 Strict