同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 主は私の羊飼い —

森田 初実

「主は私の羊飼い。  私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、 いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、 御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、 私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、 それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。  私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」    (詩篇 23篇)

 今年私に与えられた聖句であります。
 去年の歩みの中で、心の支えとなった多くの御言葉がありましたが、この聖句はその中でも特に支えられた御言葉であります。去年の歩みのひとつひとつに主が共にいてくださったことを私は感謝しています。しかし、一方的に主が私を愛していてくださっていたのに、私の方からももっと主の近くに寄り添っていくことがなかったことを示されました。 今年は主を深く感じ、この詩篇23篇の御言葉と共に、もっと私の方から主のみ側近くにいたいと願っています。私の今年の歩みの中に、主があらわれて下さり、主との深い交わりをさせて頂けるように祈っています。
 今年は二人の子どもが受験生であります。去年はこの受験のために、それぞれが取り組みをしてきました。私も自分のできることを祈りながら進んでまいりました。この受験を通して私は、子どもたちが神と共に歩むことを願い、神を知ることのできる良いチャンスと考え、歩みだしました。大きな問題にぶつかることもありました。日々の生活の中でも小さな、小さなこともありました。受験ということで出てくる事柄は、「受験生だからしょうがないね。」と、私が妥協してもいいのでは?、その方が静かにそこを過ぎることができるし、むしろ、その方が子どものためになるなあと思うことがありました。けれども、その中にも神を第一としていくならば、今は受験生だからしょうがないではなく、受験生であっても第一とするべきことを選んでいくということがあるという示しがあり、私達はいくつかその中を通ってまいりました。教会の先生方に祈っていただき、ご指導をいただきました。大切な進路を決めていくので、その方向性が子ども本人の思っているものと、親の考えがちがうところもあります。進路を決めていく時、教会のコンサートと模擬テストが一緒の日になったり、塾の受講が祈祷会と重なったり、子どもにとってはどちらも出なければ受験勉強がおろそかになるのではと不安な気持ちと向き合うことが多々ありました。そんな中で「家ではせめて少しでも多く勉強時間をとりたいから、ご飯は自分の部屋で食べる」と子どもが言ったことに対して、私はどう向き合うか。私は、この子どもが望んでいるのなら、そしてそれがこの子のためならば、部屋で食事がとれるように別メニューをつくって、おぼんにのせて温かいものを持っていってあげよう、と思いました。でも神はちがいました。本当に子どもを思い、愛しているのならば、家族が食べているリビングで子どもも一緒に食事をすることの方が大切であり、その方が子どものためでもあるということを、神は私に教会の先生を通して教えて下さいました。塾から帰る時間が遅い時には、子どもが食事をしている時私がそこに一緒にいる、それが大切な育みであることを教えて頂きました。
 このことを通して子どもたちからいろいろな反応や態度が出てきました。今でもこの取り組みは進行中です。
 子どもの学校で勉強合宿がありました。日曜日を含め、4泊5日でした。その日程は、私たちの教会の教会キャンプと2日重なってしまい、どうしたらよいのかと祈ってまいりました。子どもは勉強する気満々です。どのように導かれていくのか全く分からず、私はただどうしたらよいのか、私にはどうすることもできない、教会の先生にご相談しました。何を第一にし、それを教えていくのか、ひとつひとつ示されました。子どもと話をし、1日目の教会キャンプに参加することがゆるされました。1日目の礼拝を守ることにし、その午後からのキャンプに参加して1日目の日程を終えて夜、合宿所へ車で送っていくことができました。そこには次男のために、長男と父親が片道3時間前後をかけて送っていったことでありました。この1つの問題を通して私にみことばが与えられました。
「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:13-14)
私は主に何をお返しできたでしょうか。私に救いを与え、愛して下さる主に私はいったい何をもってお返しすることができるでしょうか。「私は何も持っていません。何も無いものです。むしろ悪いものが多いものです。それでも私を用いて下さい。私は主と共に歩みたいのです。」と祈りつつ、私は主と共に私の愛する子どもたちとの育みを喜んでさせていただきます。受験はこの春で終わります。しかし子どもの心の中にも神が選ぶ道に歩んでいくことを祈り、神が子どもの進路に最善を用意して下さることを信じお委ねしております。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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