同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 教会の宝 —

齊藤 望

「あなた方が私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」(ピリピ人への手紙4章9節)

 30年以上も前のことですが、この頃(春分の日)になると思い出す出来事があります。当時、私は自分の進路、家業の継承について多くの悩みを抱えていました。まだ二十歳を過ぎたばかりですから将来のことは何もわからずに希望と不安と恐れとをごちゃ混ぜにしたような心で居りました。そんな時にこの出来事が起こりました。小学校高学年より長い間私の教会学校の教師をしてくれたI先生から自転車でツーリングに行かないかと誘われたのでした。同じ家業の二代目、教会にあっては二世クリスチャンとしての立場から多くの経験談や信仰の証を伺うことが出来、感謝でした。
 時折、休憩する中で語られたのは、「仕事のことや教会のことで親との意見の相違があり思い悩んでいたけれども、自分の思いや意見を牧師先生に話して指導をしていただいたこと、それはとても良いことだったし、あなたにもその様にしてもらいたいと思っている。」ということでした。全行程おそらく100km位でしたが体の疲れを感じるよりも気持ちが軽くなり、自分だけではなかったという安心感と今後どうしていったらよいのかがわかり喜んだことが思いだされます。
 其の後、しばらくして牧師先生に「これからこれをこうすればこうなる、あれをしなければこうなる、とか頭の中には様々な方法や計画がありどうしたら良いのか分らなくなり、考えているだけで眠れなくなってしまう。」と自分の思いを話しました。牧師先生の答えは「考えることをやめなさい。」でした。一瞬頭の中は「???」となり混乱しましたが、牧師先生は続けて「今はまだ先のことを考えなくてもよい、現状を、今をしっかりとすることだよ。」と話されました、どうしたら良いのかという方法にとらわれていた私にとっては思いがけない答えであり、いろいろと考え迷っている自分はなにも出来ていないことに気付かされました。
 信仰生活が長くなるにつれ社会との関わりや経験から、自分流など多くの手段を考えるようになりましたが、最近の礼拝メッセージの中で一貫性、神の主体性、家庭の姿など身に迫ってくる説教がなされ、「主は私を愛してくださるが私の主に対する愛は一貫性があっただろうか」。「神は愛してくださるからと言って自分の思いを優先してはいなかっただろうか」。「信仰を継承するために主の位置づけを第一として何にもすり替えたりしなかっただろうか」等心に問うことが多くありました。祈るときに自分の考えや思いを優先しないように注意深く祈っていながらも自分の傾向性がうかがえることもあります。自分の考えや思いの強さを捨てることの大変さを痛感いたします。
 教会には私たちクリスチャン二世だけでなく三世の牧師、教師、信徒と代を重ね信仰の継承がなされています。そこにはその世代ごと、また世代を超えて各々の問題を共有している姿があります。今、私の子供たちは三世クリスチャンとして同じ三世の先輩方に教えられ、三世の牧師先生に指導して頂いています。これからも四代、五代と続くことを願う時に一貫性の大切さを感じます。そしてこれが教会の宝であり、牧師先生方の一貫した「教会の建設、信仰の継承、家庭の建設」という三大目標が与えられて四十有余年歩んできた結果であると思います。
 冒頭の御言葉は、今年私の与えられた箇所です。「実行しなさい。」とありますがまさに20代の頃に牧師先生より「考えることをやめ、今為すべきことをしなさい。」と語られた通りです。私たちは十分に学び、受け、聞き、また見たのですから。そしてそこに神は居てくださることを確信しています。

(荒川聖泉キリスト教会 会員)

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