同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 神のみわざ —

齋藤 優子

「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか?
 この人ですか。その両親ですか。
 この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
 神のわざがこの人に現れるためです。」(ヨハネ 9:1-3)

 7月の礼拝メッセージにこの御言葉が開かれました。
 このところは私自身何度も読んでいる箇所ですが、弟子たちの質問に答えていらっしゃるイエスの言葉にとても感動しました。イエスの心に触れることができ、それが私の心に響いてきたからです。目が見えないことに対して弟子たちが投げかけた言葉のように、誰かが悪いことをした罰なのかと思うことは不思議なことではないことです。むしろマイナスの考えに陥ってしまうのは生まれつきでもあり自然なことかもしれません。しかし、イエスの答えは常に神をとらえ神を意識し、その人を神へと導くものであったからです。この盲人にとって人生の大きな転機となったことは言うまでもありません。この盲人にとっても心の中に神を待ち望み、見えるようになることをその奇跡を待ち望んでいたことでしょう。イエスのすばらしさは、いろんな問題や環境を超えて出てくる、その人その人格に神との接点をことばと共に心に働きかけるうながしがいつもあることです。人の思いや考えではない神の摂理が必ずそこにあることを知ることは本当に幸いなことだと思いました。メッセージの中で、神は罪を遺棄されたことも語って下さいました。罪が見えるからこそなお神を知ることができ、盲目の人のように神の配剤がおかれていたことに目をとめさせていただきました。
 私の家庭においても3人の子供がそれぞれの人格をもちながら、また与えられた賜物を用いて神の働きをすることが出来るようにと願い祈っています。
 一番下の娘は今年高校2年生になりました。おしゃれにすごく関心があり、私が合わない洋服を着ていると主人と一緒に“変だよね、それ合っていないんじゃない?”とさらっといいますが、娘はアドバイスもしてくれます。彼女はミルフィーユの活動やエクソダスのコンサート、ベル、メサイヤのピアノと、沢山の働きに加わらせて頂いています。こうして書いていると教会の若い人たちは本当によく頑張っているなと改めて思います。普段は話す時間も短くてなかなか掴めない時も多いのですが、先日娘との会話の中で、はじめて娘の思いを聞くことができました。長男は気づいて心配しながら気遣いをしていたようです。主人は自らもそういう時期があったことを話しながら、それでもそれを抱えながらやり続けることが大事だし、大丈夫、乗り越えられるから、と信じています。娘が心を開いて話してくれたことに神は娘との関わりを持つきっかけを下さったのだと思い感謝しました。少しずつでも話す機会を多く持つことが今の私の課題ですし、その時に何を語ることができるのか、私自身も神からの知恵と力を与えて頂きたいと祈っています。
 共に闘っている仲間たちがいること、祈って下さっている教会の先生、教会の方々がいることを覚えて感謝しています。そして娘がイエスに癒された盲人のように神が見えるようになることを願いながら信じて歩ませていただきたいと思います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)

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