同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(18) —

「「私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。」(2コリント6:13-7:1)

 「私は自分の子どもに対するように言います。」と書いたとき、パウロはコリントの教会の人々だけがその思いにあったことでしょう。しかし聖書が示していることは、これらのことばは今の私たちにも当てはまるということです。
 父が子に語っているのです。イスラエルの人々がアブラハムを信仰の父として、大切にしたのと同様に、私たちはパウロを信仰の父と呼んで、大切にしてもいいかと思います。
 信仰の父は子である私たちに何を望んだのでしょうか。それは、まず第一に先に述べた「この世」との分離です。次に、「一切の霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うする」ことです。
 バンヤンはその著書「天路歴程」のなかで、「この世」をみごとに書き表しています。それは「空(くう)の町」と呼ばれる町で、「空(くう)の市」が開かれる。キリスト者は天に行く途上で、必ずこの町を通ることになる。すこし引用しましょう。
 ・・ベルゼブル、アポルオン、レギオン、およびその仲間どもは、巡礼者たちが進む路を認め、都へゆく道がこの空の町のなかを通ることを知り、ここに市を開いて、あらゆる種類の空しい物が売られ、一年中開いているようなものにしようとたくらんだ。それ故ここの市では、あらゆる種類の商品が売られていた。たとえば、家屋、土地、職業、地位、名誉、昇進、称号、国家、王国、欲情、快楽、またあらゆる種類の娯楽、たとえば、娼婦、娼家のおかみ、妻、夫、子供、主人、召使、生命、血、肉体、魂、金、銀、真珠、宝石などであった。
 そのほか、この市ではいつでも奇術、詐欺、勝負事、遊び事、道化師、物まね師、悪党、無頼漢、しかもそのあらゆる種類のものが見られる。またここで無料で見られるものは、窃盗、殺人、姦淫、偽証で、しかもその最悪のものである。
・・・。
 さて先にも言ったように、天の都へ行く道はちょうどこの欲情の市が開かれている町の中を通っていた。都へは行きたいがこの町を通りたくないという人はどうしても「この世から出て行」かなければならなかった。
 諸王の王である主ご自身もこの世におられたときは、この町を通ってご自分の国に帰られたので、しかもそれは市の日であった。その上主を招いてその空しい物を買わせようとしたのは、この市場の長であるベルゼブルであったと思う。もし主がこの町を通られるとき彼に敬意を払いさえすれば、市場の主にしようとしたくらいであった。実際主は高貴なお方であったので、ベルゼブルは街から街へと案内して、暫くの間に世界中の王国を示し、もしできればこの聖なるお方に自分の空しい物を値切って買うように誘惑した。しかし主は商品を買うお気持はなかったので、こんな空しい物にびた一文も出されず町を去られたのである。そんなわけで、この市は昔から長く続いていて、非常に大きな市である。・・・
(池谷訳「天路歴程 正篇」新教出版社、1976、p.168-170)

 自分はこの主を信じているといい、キリスト者を名乗りながら、「この世」を区別できない人たちは、せっせと働いて、バンヤンの言う空の市で買い物をしているのです。
 信仰の父の子である私たちへの期待は、私たちが主と同じように、この空の市で買い物をせず、「この世と分離し」「神を恐れかしこんで・・聖きを全うする」ことです。
 全家をあげて、「この世」と分離できますように。
モーセがエジプトからイスラエルを連れ出そうとパロと交渉したとき、パロはまず「壮年の男だけ行って主に仕えよ。」と主張しました。(出エジプト記11:11)
親だけが教会にいって、子を家(この世)に残していないでしょうか。上記の男と女が逆で、女だけが教会に行っていないでしょうか。
 パロは人が出て行くのを止められないとみると、こんどは「幼子を連れて行ってもよいが、羊と牛をおいていけ。」と主張しました。(出エジプト記10:24)
教会には行くが、産業はこの世に残してあるということはないでしょうか。
 私たちの心が、この世のものを宝としませんように。
「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:21)

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