同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第90回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

4.おわりに

 牧師職についてつけくわえますが、旧約では明らかに「祭司、預言者、王」が立てられましたが、新約ではこれらの職位の人を置くのではなく、新約のキリスト者すべてが、それぞれ神から委ねられた人々に対してその職務の内容を行うのです。
 新約では、教会が建てられ、そこに牧師が立てられました。
 イエスは御自身が、自分は牧者であると宣言しておられます。「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 ・・ わたしは良い牧者です。・・」(ヨハネ10:11-14)
イエスは天に帰られた後、聖霊を遣わされましたが、聖霊は人の内に宿り、その人を通して働かれます。イエスの牧者としての仕事を委ねられた人々が「牧師」です。
 イエスはこの世におられたとき、以下のことを述べられました。
1.教会を建てる
「わたしは・・・わたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)
2.(父が)あなたがたに聖霊を遣わす
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。・・・
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
(ヨハネ16:16、17、26)
3.あなたがたは、あらゆる国の人々を弟子とし、バプテスマを授け、教えなさい
「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(マタイ28:19-20)
4.わたしの羊を飼いなさい
「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」」(ヨハネ21:15)

 イエスが天に帰られると、すぐ信者の群れは教会となりました。それが今日にいたるまで続いていることは明らかです。
その教会の働き人は、はじめは使徒とよばれました。カトリックが中心であった時代は司祭と呼ばれましたが、宗教改革によってプロテスタントの時代がやってきて、牧師と言う名が定着しました。
 牧師はその名の通り、羊を牧する、飼うひとです。イエスが、「わたしの羊を飼いなさい。」と言われたその働きをする人です。
 イエスの建てる教会、つまりそこに集まってくる信徒の群れを牧すのです。その働きは、「弟子とすること」「バプテスマを授けること、すなわち教会に人々を受け入れること」「教えること」です。
牧師となったいきさつはどうであれ、神がその人を、ご自分の教会を牧すことを託されたひとは、これらのことに心を用いなければなりません。
 現今の教会は、「弟子とする」ということが、忘れられたか、まことにその空気が希薄だと言わざるをえません。日本では幸い、師匠と弟子の関係をさまざまな分野について見聞きすることができ、参考にできます。イエスが「弟子としなさい」と言われたことを忘れませんように。どうしたら人々は自分の弟子になるでしょうか?その力量をどこにいって獲得できるでしょうか。人には隠れた、神の前における密かな精進が必要であることはいうまでもありません。
 路傍に立って、マイク使ってひとびとに呼びかけ、キリスト教について語ります。とおりかかって聞いているひとは弟子でしょう。そればかりかうっかりしていると、教会に来て座って説教を聞いている人々でも、路傍での話を通りかかって聞いた程度でしかなかったという結果を見ます。
 「バプテスマを授けなさい。」のイエスのご命令ですが、イエスは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)とも言われました。教会は神の国です。神の国を見ることのできない人を教会員として加えて、どうなるのでしょう。ですから、まず、罪の悔い改めと、十字架による罪の赦し、新生のいのちが与えられること、そこからはじめられなければなりません。その恵みに与ったひとが、バプテスマに相応しいのです。
 そして何を「教える」のでしょうか。イエスは「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」と言われました。これは、山上の垂訓を話していればよいのではありません。実際に信仰に生きてみるとき、人はそれぞれその守るべきことが異なります。その守るべきことは、実際の生活のなかで起きてくる問題のなかにあります。
 ですから牧師には聖霊の助けが必要です。羊である信徒のひとりひとりが当面している問題を探り、イエスの求められる守るべきことをどうそれに当てはめるのか判断をしなければ、羊を飼う務めができないからです。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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