同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(17) —

「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」(1ヨハネ2:15-16)
「私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。」(1コリント5:9-11)

 前回、救いの経験の不確かな人々の実例を紹介しました。救いの経験が不確かであるとなにが起きてくるかといいますと、それは、キリスト教でいうところの「この世」すなわち「神と神の子たち、教会に対立する世界」という概念が分からない人々となるということです。
 「世」ということばは、私たちが普通に、自分たちが生活している世界のことを言いますから、神に対立する世界という意味での「世」と区別して用いる必要があります。パウロはエペソ人への手紙の中で、「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)と、それを「暗やみの世界」と呼んでいます。そしてその世界の支配者は、サタンであり、その手下たちはもろもろの悪霊であるとしています。
 救いの経験をしていないということは、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:1-3)と書かれてある、罪と罪過の中に今も死んでいるということです。ですから、肉の欲の中に生き続けているのです。ペテロもこう言っています。「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。」(1ペテロ4:3)ヤコブはこう指摘します。「「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。」(ヤコブ2:11)このことばを、引用した聖書のことばにあてはめれば分かります。偶像礼拝をしなくとも、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎのどれかを行えば、神のことばに違反したのです。
 冒頭に引用したみことばから、ふたつのことが分かります。
まず、私たちは、この世を愛し、この世の生き方をしていてはいけないということです。
もうひとつは、この世の人々を教会に入れる、教会の中にこの世の生き方を侵入させてはならないということです。
わたくしたちの生活の場を、この世から離れた場所におくのではない、とパウロは明確に述べています。
 教会は、この世と分離していなければなりません。救いの経験がそれを分かつのです。
「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(2コリント6:16-18)
 キリスト教の魅力は、「違い」にあることに気づかなければなりません。人はこころの内に何らかの「不満足」なものもっているから教会にくるのです。その教会に行ってみたら、自分と同じだった、では、どうして魅力ある教会であり得るでしょうか。その人はこう思うでしょう。「なんだ、おれと同じじゃないか!」
キリスト教の魅力は、
罪を犯していた者が罪から離れ、
汚れた者が潔くされ
高慢・傲慢であった者が謙遜になり、
愛の無かった者が、愛の豊かな者になる、
その変貌にあるのは明らかです。

 繰り返し強調しますが、救いに与り、真摯な信仰生活を続ける中に、その変貌があり、私たち信じるものを、魅力あるものに変えるのです。

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