同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(19) —

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(1コリント15:58)

 同じ事を繰り返し述べていますが、以下のようなことを論じているのです。

・神がお与えになったもの、すなわち広い意味での「救い」を本当に頂いているか。
これには聖霊の働きが非常に重要であること。
・「なすべきこと」を与えられてその遂行に努めているか、ということ。
・「なすべきこと」の遂行には手段、すなわち方法、方策、どういった道筋・手順でそれを実行するか、が大切であること。
・「なすべきこと」は、ひとりひとり違うのであるから、それに適したよい手段を見いだすためには、知識と知恵と技量が必要であること。
・知識というものは獲得しやすいのであるが、知恵と技量を得るには訓練を受けることが必要であること。
・聖霊が助けて知恵を授けて下さることがあるであろうが、聖霊が助けて下さる範囲があり、聖霊はその人が持っているものを最善に活用されるのであって、その人が持っていないもので助けなさることは期待できないこと。

 イエス・キリストが十字架の贖いによって備えられた、「救い」が私たちの内に徹底することを与えられるまで、恵みを求めることに貪欲でありましょう。
「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(1テサロニケ5:23)
これは、イエス・キリストの来臨のときに与えられると書いてあるのではなく、そのとき既に私たちが「聖なるもの」に変えられていて、「責められるところのないように」と書いてあるのです。そうでなかったら、「守られますように。」という願いはいらなくなります。
福音が知識にとどまっていませんように。私たちの価値観が変えられて、パウロと同じように、この世のものは「ちりあくた(塵芥)」(ピリピ3:8)に見えるようになることが必要です。これはパウロの価値観ですが、イエスの価値観であり、神の価値観であることは間違いありません。
 この価値観が私たちのうちに働いて、私たちの獲得しようとするものを選ばさせるのです。私たちは何を求めているでしょうか。私たちは自分の求めているものをよく見定めれば、自分の価値観がどういうものであるか、知ることができます。
 「救い」は聖霊が私たちのうちに実現して下さるものであって、罪の赦しと共に私たちに新しい「いのち」を与え、それとともに私たちの「品性」をも変えてくださるのです。しかし、救われて直ちに品性のすべてが変えられるのではありません。また福音に相応しく(ピリピ1:7)生きることが出来るようになるには時が必要です。

 ここで論じている「なすべきこと」は、牧師になるとか、宣教師になるとかというような事だけでなく、すべての信者が普通の生活を送る中に「なすべきこと」です。
 まず、自分の品性の問題であり、それは一緒にいる人々とどのように生きていくかに関わっています。
 学校を選ぶとか、職業を選ぶとか、結婚相手を選ぶとかといったことに、上に述べている「価値観」が、重要な役割をします。もう一つ、教会の風土が大切です。自分より少し年上の兄姉の行動が非常に大きな影響を及ぼします。
子どもの選択が、その子どもに悪い結果をもたらすものであったら、親の「なすべきこと」はそれをとどめることです。そして、それは牧師の「なすべきこと」です。
 これまでずっと述べてきたように、子どもの問題は、ある日突然取り組むのではなく、幼いときからの積み重ねで、対処できるかどうかが決まります。子どもも一人の人としてそれなりの年齢に達すると、自分のことを決めていきますから、その段階で牧師の権威、親の権威を受け入れられるか、どうかということは、そのひとが神の前に生きる姿を決定します。世間の風潮では、「従って生きる」ということに価値を認めませんが、神の目には最高の価値があるものです。サムエルがサウルにいったことば、「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(1サムエル記15:22)は、次のみことばに当てはまります。「エレミヤはレカブ人の家の者に言った。「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『あなたがたは、先祖ヨナダブの命令に聞き従い、そのすべての命令を守り、すべて彼があなたがたに命じたとおりに行った。』それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『レカブの子、ヨナダブには、いつも、わたしの前に立つ人が絶えることはない。』」(エレミヤ記35:18-19)」
 私たちが牧師に従うことを見るとき、また教会の中で育った子どもたちが、親に従うのを見るとき、神は同じように喜んで下さるのです。
 神が私たちを喜ばれるとき、神が私たちの教会を繁栄させて下さることでしょう。

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