同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第91回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

4.おわりに

 いろいろなところで私が強調してきたことですが、牧師は自分の教会の信徒の信仰の当事者です。親は子の信仰の当事者です。
 牧師は自分の信仰を信徒を通して世に実現するといっても過言ではありません。
理想的な内容であっても、それを実現する信徒の霊性、力量、能力、知識、知恵といったものに左右されます。単に霊的問題だけでなく、この世の問題に関する知恵、知識、能力、技能、力量といったもの、さらにはその信徒が生きてきた場、現在の家庭、職業、社会における立場等々にも影響されます。
 ほとんどの人々は、そのようなことは考えず、教会の門をたたきます。救われて教会に加わっても、そういう考え方をしていません。どうしたらその人は牧師の弟子となり、牧師を自分の信仰の当事者と受け入れるでしょうか。牧師は信徒の信仰の状況をどうやって知るでしょう。生きていることそのものである、次々と起きてくる状況の中でその人の信仰はどう働きをするのでしょう。牧師はその当事者がどうやったらつとまるでしょう。
信徒に寄り添って一緒に生きることがその入口でしょう。牧師と信徒との交わりの時をどうやったら獲得できるでしょうか。牧師と信徒の信仰生活の共有と、ことばはすばらしくても、信徒が逃げ出してしまわないでしょうか。
 けれどもそれはどうしても取り組まなければならない課題です。牧師として神の任命を受けたときその仕事を神から使命として授かったのですから。

 平信徒となっている人々は、キリストの救いを受け入れて信徒になったあと、どこかで牧師になるか、平信徒になるか選択をしたことでしょう。自分は牧師でなく信徒として生きていくと決めたからには、羊飼いでなく羊なのです。それを受け入れて、羊に相応しく、牧師に従って生きなければなりません。

 繰り返し強調していることですが、神は人を通して働かれます。ジョージ・ミューラーは祈りの人で、祈りだけで数千人の孤児を養ったと伝え聞きます。しかし、神は彼の祈りに応えて天からお金を降らせたのではありません。孤児を養うだけのお金を献げた人々がいたのです。
 フィリップ・ケラーの「羊飼いが見た詩篇23篇」という本が、日本のキリスト者の間で非常に多く読まれています。この本を通して、羊がどういうものであって、羊飼いは何をしなければならないか、実によく分かります。大抵のひとは、自分を羊の位置に置いて、羊飼いである神の養いを考えることでしょう。しかし、神が私たちのできごとに直接介入して下さることはごくごく希です。神は私たちに、羊飼いである牧師を立てて、私たちをお取り扱いになるのです。
 自分にとって「緑の牧場」は何でしょう。隣の(この世の)牧場の方がより緑に見えてこないでしょうか。
私たちは柵の外に逃げ出す愚かな羊でしょうか。
同じ道だけを繰り返して通り、そこを雨水で土地を浸食させる原因とするでしょうか。それは私たちの生活のどの部分に当て嵌まるでしょうか。
牧草を根まで食べ尽くして、牧草地をだいなしにするとはどういうことでしょう。
牧草地を移動するとはどういうことでしょう。
冬を過ごす牧舎と、夏を過ごす高地の草原はどこにあるでしょう。
襲ってくる、泥棒、野獣、昆虫類、病気などはどのようなものでしょう。
牧草地の毒草、悪い水たまり、などは何を指すでしょう。
夏の暑さ、冬の寒さ、にわかに起こる荒れた天候はどのようなものでしょう。

このケラーの書は、牧師にも信徒にもじつによいヒントを与えています。全文をここに載せてしまいたいくらいです。

 羊飼いは羊のために、身を捨てた労苦が必要でしょう。
羊もまた、この書から教えられて愚かな羊であることを自らすすんでやめなければなりません。

「主は私の羊飼い。
 私は、乏しいことがありません。」
(詩篇23:1)

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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