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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—29

 7月の聖書を学ぶ会、ヨシュア記2章が開かれました。これまでも何度か取り上げられ学ばせていただく機会の多かったラハブの記事です。

「カナン人はみな滅ぼされたのにラハブとその家族がなぜ特別だったのか、どうしたら事を動かすことができるのか。ラハブは遊女として普通の生活をしていた。しかし、事があった時、動くことができた、事を成していくことができた。
神がなさったこと、後押しして下さること、神は生きて共に歩んで下さること、などなどをどう見抜いていくのか、捉えていくのか。
今の時代、宗教を生きていると言うわりには神のなさっている物事を見極めることができない。神の御旨をわからずに逃してしまっている、違うものへ行ってしまう。しがらみ、既成概念などで心の目を閉じてしまっている。
聖書を学ぶ会はそういうところに視点を置き、それぞれが変わって行ってほしい」
と山本嘉納先生が語られました。

山田行姉からの質問です。
「メッセージで事を成す、そのためには忠実でなければならない、私たちが永遠のいのちの価値を知り、その報酬にふさわしく働かせていただかなければならないと語られましたが、神を自分の範囲で決めていて、これくらいとしている愚かな自分を思わされます。そんな私に分からせて下さいと祈ることが大切なのでしょうか。」

それに対して先生は、「正直に自分を分析できるかどうか。恩義、恩寵、この人のおかげで今がある、その人がいなかったならば私の人生はなかった、自分で生きてきたというのは傲慢。自由と傲慢が一緒になったなら怖い、神を畏れながら共存している、それが神の秩序。社会に生きていながら有用なものを学んでいる、恩義を返す、私たちには福音がある。いっぱしやっていると思っている人は周りに人がいなくなる。神様にすべてを与えられたという人も外れていく、人を入れない。愛すること、愛されていることを教えていかなければならない。周りにいる人が大変と思っても、その人に恩義があるかどうかを良く考え、この人の良いところってなんだろうと考えてみる。物が動かない人間は愚かしい、旗振るのをやめないといけない」
と語られました。

今、繰り返し繰り返し語られているメッセージでありました。

(茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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