同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第92回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

4.おわりに(つづき)

 神から委ねられた人たちのために、祭司、預言者、王の役目を務めることを、神は私たちに預けられたのです。牧師は教会に所属する人々が、家庭を持った者にはその家庭にいる人々が、また特定の隣人を委ねられたひとはその隣人に対してその任務を果たすことを期待されています。それには大いなる栄光と重い責任を伴っています。
それで、祭司、預言者、王はどのようなものであったか、考察してきました。要約するなら、先に述べたことをもう一度引用しますが、 
「王は、国が成り立っていくための実生活における様々な事柄を指揮したり、争いごとを裁いたり、軍隊を率いて国を守ることがその職務の中心です。予言者は神のことばを取り次ぐことがその職務の中心です。祭司は人間を神に受け入れていただけるようにする手助けをすることがその職務の中心です。」
神はご自分のもとにお受け入れになった人々に、イエスの贖いによって備えられた救い、すなわち犯した罪の許しと潔め、イエスに似たものとしての品性をお与えになります。もちろん、それを頂くためには時間のかかる過程があることでしょうが、そのようにまとめて述べることができるのです。
 イエスの備えられた救いを委ねられた人に与え、その中に生きる手助けをすることが、祭司、預言者、王の職務であるわけです。
 この職務を果たすためには、自分がまずその恵みをいただくことからはじまります。そしてその職務に相応しい任職を受けることが必要です。祭司の任職、預言者の任職、王の任職は旧約の方が具体的でわかりやすいものでしたので、それぞれについて解説しました。新約ではいずれも霊的なもの、魂の内になされる神のみ業が中心です。
 イエス・キリストの救いのみ業、つまりキリストの職務は、旧約の祭司に関連する記述によってよく分かりますから、その内容に多く取り上げました。
幕屋と神殿、犠牲による儀式、穀物を捧げる儀式、大祭司の服装、逃れの町、などについて説明しました。
 第11回で引用したマッキントッシュの解説をもういちど引用します。

 ・・次に本書(レビ記)のはじめの数章に記されている供え物の順序について一言述べることにする。主はその順序を全焼のいけにえから始め、罪過のためのいけにえで終わりとしておられる。これは、主は人が始めとするところを終わりとされることを示すものであって、この順序には特に大きな教訓がある。つまり、人はまず始めに悔い改めの心をいだき、良心が鋭く働き、過去の生活が呼び醒され、人と神とに対して犯した多くの罪の汚れを思い出して、犯した過ちとその根本について深く反省させられる。この時に、神は「凡ての罪過を赦す」ことができる犠牲をすでに備えておかれたことを知らされる必要がある。これらの事柄は、罪過のためのいけにえに示されている。
 しかし、信仰生活が進むに従って知ることは、犯した幾多の罪は一つの根から出た枝であり、一つの泉から出た流れであり、更に自分自身の内にある罪の性質がその根本をなすものであるということである。このような体験は十字架によってのみ知らせられる。つまり、十字架は神ご自身が「肉において罪を処罰された」(ローマ8:3)ものであることを知らしめられる。聖書には、神は「いのちにおいて罪(数多くの犯罪)を定めた」と記されてあるのではなく、「肉において罪(数多くの犯罪の根本である原罪)を処罰された」と記されている。これは重要な真理である。キリストは単に「聖書に示すとおりに、私たちの罪(犯罪)のために死なれた」(コリントⅠ15:3)ばかりではなく、「私たちの代わりに罪(原罪)」となられた。これが罪のためのいけにえの教理である。
 私たちの心が神の聖前において私たちの平安と喜びの土台であるキリストによって養われるのは、私たちがキリストのみ業を知り、心と良心に平安を得る時である。しかし、私たちの罪(犯罪)が赦され、私たちの罪(原罪)が処罰されたことを知るまでは、平安も喜びを味わうことができない。これが和解のいけにえや感謝の供えものの意味を知る前に、罪過のためのいけにえや罪のためのいけにえの意味を知らなければならない理由である。従って、和解のためのいけにえが記される順序は、キリストについての私たちの霊的理解の順序に相応している。
 同様に、完全である順序は穀物のささげ物の場合も同じである。つまり魂がキリストとの霊的な交わりの楽しさを知るように導かれたときに--神の聖前で平安と感謝とをもってキリストに養われたときに、キリストの人格の驚くべき奥義を知ることを希望するであろう。この希望は、完全なる人性としてのキリストのひな形である穀物のささげ物の意味を学ぶときに達せられるのである。
 全焼のいけにえについても同様である。これらの事はみごとに、詳細にレビ記に記されている。いま供え物の順序についてわずかに見たに過ぎないが、まことに驚くべきことである。その順序は、神から私たちに対する外向的なものであるか、私たちから神に対する内向的なものであるが、いずれの場合にせよ、十字架をもって始まり、十字架をもって終わるのである。例えば全焼のいけにえから始めるならば、それは神の聖旨を行い--すなわちご自身を全く神にまかせて贖罪をなされた十字架上のキリストを学ぶことから始めることであり、また罪過のためのいけにえから始めるならば、それはご自身の完全な贖罪の犠牲によって私たちの罪を取り去りなさる十字架上のキリストを学ぶことをもって始めることである。
 いずれの場合にせよ、神である崇めるべきキリストの優れて美しくかつ完全であることを学ぶのである。
 これらの尊いひな形を詳細に学ぶとき、深い興味を起こされる。・・
--C.H.マッキントッシュ「レビ記講義」(伝道出版社発行)から--(文体を改めたもの)

 マッキントッシュは、キリストが私たちに代わって「罪となられた」ということばの意味を、「私たちの罪(原罪)が十字架において処罰された」と表現していますが、「私たちの罪(原罪)が十字架において聖絶された」と読み替えると、意味がよく分かるでしょう。
 罪の赦しも、罪の潔めもすべて十字架の贖いによることがここに示されています。
これこそが、祭司、預言者、王として立つ者が、まず自分が頂き、愛する隣人のために獲得しなければならない神の備えられた恵みです。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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