同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 万人祭司・万人予言者・万人王(第93回) —

野澤 睦雄

・・クリスチャンはみな預言者である。みな祭司である。また王である。キリストにあって、神は私たちを一体とし、そして王位に着けられた。
・・ C.E.ジェファソン(「教会の建設」から引用)

4.おわりに

「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。」(ヘブル5:1-3)
 このみことばの中に二つの重要な内容が含まれています。
その1は、祭司が他の人々に代わって犠牲の献げ、神の赦しをその人にもたらすことです。これはキリストの働きでありますが、それまで神を知らずキリストの救いに与っていなかった人を神の前に立たせ、神から罪の赦しをいただく働きをするのは、イエス・キリストから祭司の働きをするように使命をいただいた人です。ずっと論じてきたようにその務めは、すべてのキリスト者に与えられる可能性があります。万人祭司とはそのような意味です。けれどもその祭司の職務を務めるのは、その都度神が導かれたひとに対してなのです。
学校の教師はいつでも教師、警察官はいつでも警察官であるように、キリスト者は常にキリストの体としての祭司なのですが、祭司職の対象となる人は、都度導かれる人であって、そこに私たちの祭司としての職務の限界があります。
 その2は、自分も祭司職をつとめて差し上げる人、--隣人--と同じ位置にいることです。自分もイエス・キリストの贖いによって、罪を赦されたひと、罪を潔められた人でなければなりません。
 旧約の祭司は、年ごとに罪を覚えるから、犠牲は繰り返し献げられるが、新約にあっては、ただ一度イエスの血が献げられて、贖いが完成されたので、繰り返されることはないと聖書の中に解説されています。新約の私たちは、自分の経験として、この犠牲であるイエスの血が自分のために働いたとき、それはただ一度で完成して永続するものであり、繰り返す必要のないものであることを知っています。
 私たちはキリストの祭司に任命されていることを自覚し、潔く生きるものであらさせていただきましょう。

(以下次号)
(仙台聖泉キリスト教会員)

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