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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—38

 4月、新しい年度を迎え教会の若い方々も、進学、進級と新しい環境の中に入っていることを覚えることでありますが、変わりなく教会の集会を大切にしながら集っていることを感謝いたします。高校一年生になった山本更姉も聖書を学ぶ会に今回から加わり、早速質問をしていました。

 ヨシュア記11章が開かれました。「北の戦い、エリコ、カナンの真中から入ってカナン人の地を分断し南を倒し北を倒した。北も連合軍を組んで対抗してきた。南になかったのは騎兵、戦車。北の方向には平原が延びていたのでそのようなものがあったとしても勝てなかった、意味を成さなかった。神を信じて事を行う。変わりなく聖絶したものと戦利品として自分たちのものとしたものがあった。人はすべて殺さなければならない、民はそれに従った。ギブオンの住民ヒビ人を除いてはイスラエルに降伏した住民はひとつもなかった。神がそのように仕向けられた、神が心のままにさせた。私たちがだんだんとものがわかったとしてもへりくだってそこに従っていかないと事は成されていかない。わかっていることと行うことは違う。生きてそれを行うことができるか、長く信仰生活の中でやり続けていくことができるか。イスラエルも完全に滅ぼさなければ中途半端な結果を残さなければならなかった。一貫してヨシュア記が私たちに教えていること、そのことをしていかないと大きな影を落とすことになり代を重ね信仰を継承する中で影響を及ぼすものとなる」と語られました。

 今回は山田姉からの質問で「礼拝メッセージの中で人格的な交わりに大切なのは緊張感ということを話されていましたが具体的にはどうことでしょうか」とありました。
 それに対して「語ったところはマタイの福音書18章23節からのところで1万タラントの借りを赦してもらったしもべが百デナリの借金を赦すことができなかったところですが、受け取る側がどういう状況で聞くかということです。私たち自身が成長しているか、変遷しているか、少し考えてみましょうと投げかけているのです。あの記事は赦してもらったしもべに緊張感がないということ。私たちの霊的生活の中で緊張感を持って歩んでいるか、私たちの営みは神の前に筒抜けであるということを意識しているか。百デナリ赦さなかったことで1万タラントの免除はチャラになった。究極悪気はない、忘れている、それが緊張感がないということ。そうなるとあわれみは閉ざされていく。変遷は良い方だけではなく悪い方にもなされていく。それを持っているということは強い。多くのクリスチャンはイエスキリストの十字架の恵みでとどまっている、憐れみを取り違っている。全部思い通りになることを願い、思い通りにならないと怒る。憐れみがあるうちに自分と自分に関わる人を救っていかなければならない」と語ってくださいました。

 日々の生活の中で緊張感を持って神の前に活き活きと歩むということがどういうことであるか、もう一度考えさせられた集会でした。

(仙台聖泉キリスト教会:茂永 和子)