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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—30

 8月の聖書を学ぶ会、ヨシュア記3章が開かれ変わらずにそれぞれの質問にメッセージが語られました。
 ここは斥候がヨルダン川を渡った後のところ、シティムから斥候を送った。ヨルダン川はヘルモン山から水が流れ水の量は多い季節、すべては神が行われることで神のご計画が人の力や人の考えであるなどという余地がないほどになされていた。神との距離間がどれほどあるか、何がなんだかわからないうちに行なわれたのではなく、語られていることを捉えるのにも個人差がある。その中でもラハブとその家族は助かった。イスラエル、ヨシュア、祭司たち、神に近づく者たちは距離のゆえにわかることができた。神が水を堰き止めて下さった、神がどれほどにそのことをなして下さっているか、きよめられなければならないこと。神に近い者たちがその真相を知り得た。私も神に近づき神の業、働きにどう携わって行かなければならないか、気をつけなければならないのかをわかり自分の業を進めていくことができる。その時だけの祈りや求めでは何も積み上げられない。

 山田行姉からの質問です。「礼拝のメッセージの中でルカの福音書23章の二人の強盗の記事から利潤をつくって行けるかということが語られていましたがどういうことなのかもう少し教えていただきたいと思います。」

 それは自分を救い人を救えるか、神という方の心を捉えることができるか。心を動かすとはどういうことかということを考えていく、神は人格を持っておられる。神が人格であること、恐いから気をつけなければならない、やさしいから温もりを感じ取らなければならない。二人の強盗の一人は「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と正論を言っているだけ。心を動かしたい、愛する者を救っていきたいと思いながらその人の心を見ていない。無関心、自分の事しか考えていない、身内の心をつかんでいない。親は私を見ていない、関心がないと子供は見ている。神は私たちを常に関心を持って見ている。一番近くにいる者に関心を持ち関わっているからこそ、その心を鷲づかみにできる。ぶつぶつ文句を言っている間は何もならない。百人隊長の記事も礼拝で取り上げましたが百人隊長は承知して兵士を戦場に出さなければならない、その深さを捉えることができるようなものに。神の世界をわからないまま終わるのは残念ですと語られました。

(茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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