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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—27

 申命記も1章ずつ学ばせていただきながら最終章の34章を迎えました。モーセを通し繰り返し繰り返し語られてきたメッセージの中に今も私たちが捉えなければならない大切なところを一つ一つ語っていただいていることを感謝いたします。

 34章7節にあるようにモーセは最後まで元気であった。目もかすまなかったのでピスガの頂に登り見渡すことができた。語り続ける霊的気力、仕える力、愛の力、愛があればこそ気力があり、気力があればこそ愛することができる。いずれ私たちにも死がやって来ますが、どう信じ、どう死を迎えていくか。長くても不幸な人生では不幸を増す、神を信じ神の中に愛の中に歩み続けていくならば幸いとなる。モーセは最後まで自分の努めを果たした。34章5節6節に書かれてあるように主ご自身がしもべモーセを葬って下さった。その労をねぎらって彼の側にいたのは主ご自身。私も最後は愛する者が看取ってくれることを願うが信仰の継承は主ご自身が葬って下さる。どのように死ぬかはどのように生きるかということ。30日の喪の期間はエジプトの王に匹敵する期間。私たちの葬りは主に委ねてと語ってくださいました。

 山田行姉から「申命記全体を学んで神の前に従順になることの大切さを思います。イスラエルのこだわり、うなじの怖さ、何度も繰り返され自分自身もそのような者であると思い知らされますが従順に生きるとはどのようにしていったらいいのでしょうか」と質問がなされました。
 そのためには対象となる人、神様はもちろんですが隣人が必要で、長い間お姑さんに仕えてきて、それが取り払われた時に自分にあえてそのような人を置くということが大切だと思います。よく私は家庭集会などで漬物石の話をしますが漬物は漬物石がないと美味しくつからない。自分って味気なく、そっけなく、年数だけ経っても、となってしまう。自分の好きなものを選んでいるとそのような漬物になってしまう。最終的に人に受け入れてもらえない、宗教は私たちの漬物石。小さいうちから子供をその所に置いていく、取っ払っては終わりだという思いで。いつのまにか神を信じることも取っ払っている、私はクリスチャンなのでこれをしませんと。本当はそこに神の御心が隠されていてそれをしなさいと願われているにもかかわらず。漬物ならばみなさんに味わってもらえるようにと語られました。良き学びの時を感謝いたしました。

(茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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