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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—33

 11月聖書を学ぶ会、ヨシュア記6章が開かれ変わりなくメッセージが語られ続けられています。

 「カナンの征服、エリコとアイ、中央の戦い。南部エモリ人の同盟、北部戦線カナン人の同盟。皮切りになったのはエリコの戦い。ヨルダン川の手前はモーセの管轄、ヨルダン川の向こう側はヨシュア、戦い方も違う。エリコの戦いは礼拝のような形、堅固な城壁が崩れ落ち町を攻め取った。遊女ラハブの家族が残った。ラハブは自分の家族を説得した。本来、災いが来るよ、これが本当だよ本当だよと言っても世の人々は信じない。ラハブが言ったことを聞く者たちが優秀だったというよりも語る側に力があった。信じてます、信じてますといっても何もできない愚かさ、足らなさ、悲しさ。自分自身もそうだが子供たちを導いていく中でどうにもならないものになっていってしまう。ラハブ自身が偵察を見抜いて確約をとる、人を説得する。ラハブはユダの家の中枢に入って行く。異邦人でありながらイスラエルの家に組み込まれていく。大きな発展の鍵、神を信じるというのはいったいどういうことなのか。神を信じる信仰を整えていく。私たちを整えて良い働きをすることができるように良い働きをも備えて下さっている。聖書がかもし出す心理を捉えていかなければいけない。」と語って下さいました。

 S姉から「今、私たちがキリスト教を教える意味はどういうところにあるのでしょうか。」という質問がありました。

 それに対し「良いと自分が信じているものを伝えていく。人間の連鎖、負の連鎖をくい止めていかなければならない。そうでないと人はそれをやり続けてしまう。頼まれ仕事、やらされ仕事ではすぐに行き詰る。いよいよ神を信じる。本当にキリスト教で大丈夫なの?と子供は親の顔を見る、本気で生きているかが問われる。試金石、どのくらい本物にしようとするか。純度、レベルを上げる。試金石をほどほどにした人たちは教会に若い人がいない。本物の基準、わかっていてもできなければ意味がない。神は侮られる方ではない。見た目それらしくは見抜かれる。」と語られました。

 この年も残るところ、ひと月となりましたが最後まで仕え続けさせていただきたいと思います。

(茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)