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質問してみよう「聖書を学ぶ会」—31

 9月の聖書を学ぶ会、ヨシュア記4章が開かれました。

 イスラエルの民がヨルダン川を渡る記事ですが、残っている民が戦士たち、豊かな強い民ならば問題なかったが、弱い者も、女、子供、家畜もヨルダン川を渡る、その大きな壁を神が取り払って下さった。ヨルダン川の真中で祭司たちが箱を持って立っていた場所から12の石を取った。それは自分たちではなく、若者たち、まだわからない者たち、新しいジェネレーション、後の者たちにもわかるように。私たちの齢、摂理、限られた中で何をしていかなければならないか。私たちの思いでは早く限界が来る、私たちの考えが及ばない、自分たちで終わりにしている、自分の都合の良いように。次の者に渡していく、信仰を継承していくということはどういうことか、今何をしていかなければならないか動機が問われる。自分たちの責任を果たし渡していく。周りにいる神を信じない者たちも、この者たちの神はヨルダン川を渡らせた神なのだと覚えていく。私たちも自分の救いを覚え記念していく時に神の豊かな恵みがその家から離れない。と語ってくださいました。

今回は石井ミワ姉からの質問です。

『今週の礼拝のメッセージでメフィボシェテがダビデの前に出た時に語ったことば「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」を取り上げて語られましたが、メフィボシェテは5歳の時に父親であるヨナタンと死別していますが、ヨナタンがそれまでにメフィボシェテにいろいろなことを教え、影響を与えていたのでしょうか?』

『神の摂理、本当の意味でどういうふうに具現化していくか。実際5歳では十分に伝えていくということはできない、間に人を介さなければならない。純粋に信仰が表明されているか、不十分なものだと間に人が入ると変わってしまう。どのくらい真剣に周りに自らの信仰、神の真実を語り歩んでいたか、メフィボシェテを預かった者たちが「あなたのお父さんは…」と証言していた。ヨナタンの側にいた人たち、それはメフィボシェテの側にいた人たち。その人たちとヨナタンは結びついていた、ヨナタンは生き続けていた。自分の好き勝手にやっていたならば残らない、その人が終わったならばそれまでで終わってしまう。メフィボシェテはいずれ王となるダビデの前で何を語らなければならないかを長い間を通して教えられていた。私たちもだれかにインパクトを与えておかないと』と先生は語られました。

(茂永 和子  仙台聖泉キリスト教会会員)

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