同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 信仰生活52年の感謝 —

野澤 睦雄

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」
(詩篇 103:1-5)

 私は、1962年5月12日の夕方、救いの恵みに与りました。この5月で丁度、52年間救いの中を歩ませていただいたわけです。
 救われたのは大学2年生、19歳の時でした。大学に入り、クラブ活動でフォークダンスをしていました。しかし、心は虚しく耐えられませんでした。この世のものを獲得しても虚しいことが、「肝に銘じる」ということばがありますが、その言葉の通り深い納得となりました。救われた後に、ふたたびこの世のものに惹かれることがありましたが、惹かれるままに教会を離れていってしまうことはありませんでした。「この世のものは虚しい」ということが、歯止めになったためです。
 その虚しい心に対して、行動をおこしたのは、礼拝でされた説教で「あなたがたは神に近づく道か、遠ざかる道かいずれか一方しか歩むことができません。」ということを聞き、私は神に近づく道を行こうと思ったためでした。自分は神の前に汚れた者で、救われたキリスト者たち・・聖い人々・・と並んで座ることには相応しくないものであること深く自覚しました。 先生をお訪ねし、「ここに相応しくないものですが、神に近づきたいのです。集会に神がおられるので神に近づくために集会に励みたいのです」と申し上げました。中風の僕を癒していただきたいとイエスに願ったローマの百人隊長が、「私はあなたを私の家にお迎えするに、相応しくないものです」と言ったその心がよく分かります。そういう者でしたが、先生に祈って頂いたとき、罪の赦しと新生のいのちを与えられました。イエスの十字架は私のためのものとなりました。
 教会に加えられ、このところまで信仰を全うすることができました。自分の切り出された岩、掘り出された穴がどのようなものか、忘れなかったことは、与えられたものの大きさを理解する助けになりました。私にある善いものは全部恵みによって与えられたものですから。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)