同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 日本のキリスト教界の沈滞理由を問う(21) —

「イエスは彼に言われた。『あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。』」(ヨハネ20:29)

 前回、自由主義神学および新正統主義神学がキリスト者に救いを失わさせるものであることについて触れましたが、これらを信奉する人々と接触すると、「実存」「実存主義」「実存哲学」「実存主義神学」などということばに出会うことでしょう。この「実存」という考えも、警戒しなければならない重要な内容を含んでいますから、少しだけ取り上げておきたいと思います。
 実存という考えは、哲学の考察において、人間の思考、観念の領域よりも先にまず「実際に存在するもの」を基礎とすべきであるという考え方を展開したものであると考えられます。「実存」の考えはハイデッガーというドイツの哲学者によってこの分野の人々の関心が引き起こされました。そしてサルトル、キルケゴールなどによって、「実存主義」「実存哲学」として展開されました。さらにブルトマンによって、神学の領域に展開され、「実存主義神学」なるものがキリスト教世界の脚光を浴びるようになりました。
 実存主義は、「実際に存在する自分」「自分が見た事実、経験した事実」あるいは「実際に存在する多数の人間」「多数の人間が実際に見ているもの、経験している事実」を真として他を否定することに根本的な問題点を持っています。
「誰かが、実際に見たことのないものは、その人にとっては存在しないに等しい。その人にとっては存在しないのだ。」と解釈されます。今生きている人は、誰も聖書に書かれている奇跡を見ていません。ですから、この実存主義の考えに従うと、奇跡は存在しない、聖書はフィクションであるとされてしまいます。
 実存主義を展開した人々が、もしキリストの救いに与った人々の上にその思想を展開したなら、もっと違ったものになったでしょうが、残念ながら、本人も救いを知らない人々で、研究の対象となった人々も救われていない人々ですから、そこにキリスト教を台無しにする思想の展開がなされてしまったのです。

 キリスト教は救われた人をイエス・キリストの救いの証人とします。その証言を聞いて信じる人が次に救われるのです。
 救いに与っている皆さんは、キリストの救いの大切な「証人」なのです。その宝を「地に埋めておく」ことのありませんように。人々の前に高く掲げて生きましょう。

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