同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 神の平安 —

山田 行

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
(ピリピ4:6-7)

 最近、生活サイクルのふとした変化から両親と過ごす時間が多く与えられるようになり、感謝しております。二人とも80歳を越えましたが、変わらず家族を愛し、教会を大切にし、神を第一に生きている姿は、私の大きな慰めであり、そして目標となっています。
 父は耳が少し聞こえづらくなり、母は足が弱くなりました。言っていることもたまに辻褄が合わなかったりしますし、もの忘れも目立つようになりました。それでも、一番そばにいる兄の家族に助けられながら、守られていることを本当に感謝しています。
 私が子供のことで悩み、父にその思いを告げると「子供の問題だけに目を向けるのではなくて、親のあなたがどういう生き方をしているか、信仰を具体的に生きているか、を考えてみなさい。あなたの姿を見て子供たちが神を知ることができるかどうかが大切だと思うよ」と話してくれました。
 また、私が不安な顔をしていると母はすぐに察して「私が神様を信じて一番良かったと思うことは、目に見える幸いや自分がやってきたことが祝されたことよりも、神様の平安がいつも共にあることだよ」と言ってくれます。
 そうしたちょっとした会話の中に、神は父と母を通して語りかけてくださっているのだと思わされ、よく冒頭の御言葉を思い出します。この御言葉にあるように、感謝をもってささげる祈りや具体的に丁寧にささげる祈りを通して私の願い事をきちんと神に伝えること、そのようなひとつひとつの現実の神との交わりが大切で、この交わりを神と出来ることによって「神の平安」が与えられていくことを信じています。

 幼い時から私は父と母に本当に愛されて大切に育ててもらいました。
 勿論、神を伝えてもらったことが一番の感謝で、自分の生きている意味や、何が大切なのか、何をしてはいけないのか等、神の世界の価値観を両親は丁寧に教えてくれました。
 言葉で教えられたこともありますが、上の父の言葉のように、両親の生きている姿が道標となって私をこのところまで導いてくれたのだと思います。
 また、母が語る神の平安とは、私たちの思いの及ばないところにまで神の助けや行き届いた配慮があって、私たちの歩みは導かれ支えられていくということだと思います。 母も、そんな神の平安から来る喜び――結婚前には思いが及ばなかったであろう喜び――を父と一緒に味わったのでしょう。

 そんな両親の、いつも変わらずに祈る姿が、いつまでも教会の中に見られることを願っています。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)