同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 救われて —

山本 守

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」
(1ヨハネ1:9)

 四月に救いを受けて三ヶ月が経ちます。日々神と教会との関わりをもって、魂と霊の成長が与えられていることを感謝します。今では心に平安が与えられ、日々の生活がより良いものとなっています。
 救いを受ける前は、私の心は暗闇と悪の中にいました。周りを見ずに、自分のやりたいことばかり追って、自分の求めにかなわないことからはいつも逃げていました。神が私の近くにいつもおいて下さっている愛に気づかず、本当にその愛に無下にしてきました。その結果、家族を悲しませ、教会の兄弟姉妹を悲しませました。私はある夕食のときに祖母に対して悪口を言いました。私はいつものように祖母の間違いを指摘したつもりでしたが、その言葉遣いを祖父に厳しく注意されました。私は間違いを間違いといって何が悪いと、自分は何も悪いことをしていない、間違っていないと心をかたくなにして祖母に対する行き過ぎた対処に意識を持つことができませんでした。そんなことからぎくしゃくした祖父母との関係が何ヶ月も続きました。しかし私は、祖父が和解の話を出してきて家族の雰囲気を戻そうと提案されても、それを承諾しましたが、それでも自分は何も間違っていないと最後まで変わりませんでした。しかし私はその時、最後まで自分が大切にしなければなせない祖父母に対して謝ることが出来なかったことが心に重くのしかかりました。本当にこのままでいいのだろうか。自分は間違っていたんじゃないか、と考えれば考えるほどもう自分じゃどうしようもないという気持ちになり、私は父である嘉納牧師のところに行って助けを求めて話しをしました。その時、先生は「あなたは神が近くにいつも置いてくださっていた愛に気付かなかったのですか」と私に語ってくださいました。私は、神が私のそばに最も愛すべき存在をおいてくださっていたのに、自分勝手な考え方でその愛すべき人々を悲しませていたことに気付かされました。そして私は、ここまで犯してきた罪を告白し、キリストの十字架を信じて神に救っていただくことが出来ました。その後すぐに行って、祖父母に自分がいかに傲慢で自分勝手なものであったかを告げ、「申し訳ありません。許してください。」と謝ることが出来ました。その瞬間の私の心が罪から開放された感覚は今でも鮮明に残っています。
 私は、神はいつもそばにいてくださって、その計り知れない愛と寛大な御旨を持って私を救いに導いてくださったことを真に知ることが出来ました。確かに教会の中での説教や学びで、知識的には神の愛、イエス・キリストの十字架による救いは知っていました。しかし、それが具体的に自分のものとなった時に、真に神が私を愛し、私のためにキリストが十字架で死んでくださったことを本当に感謝しました。
 私はこの身を神と教会の人々に献げ、これからの人生を生きていきたいと思っています。まだまだ未熟で、魂すべてが霊に満たされているとは言えませんが、だからこそ全き献身と訓練をもって、日々霊に燃え主に仕えていきたいと思います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)