同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 主のお取り扱い —

山田 行

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」
 詩篇103:2

 この年も家族と共に、また愛する先生方や兄弟姉妹方と共に、神が与えてくださったなすべき責任を果たし、福音の業に前進することが出来たことを感謝しております。 
 一年を振り返ってみますと、神への祈りが専ら自らの願い事ばかりであり、心配なことから助けて下さいという自分本位のものばかりであったことを反省させられます。どうしても神の御手の中に全てを信じ委ねることが出来ない自分に何度も出会わなくてはなりませんでしたし、口では信じています、委ねます、と祈っていても、自分の思いではない事が起こるとすぐに揺れ動いて不安に陥り、何とかしなくてはと自分の考えで動き始めてしまうことの繰り返しでした。
 しかし神は、そんな私の祈りを、神への信頼と感謝を表す祈りに徐々に変えて下さいました。週ごとの礼拝のメッセージや諸集会での兄弟姉妹方の証しなどによって、励ましを受け、自分本位の考えから引き戻されることが度々ありました。また、主人とも話し合い確認し合いながらお互いの考えがバラバラにならないよう調整しながら歩めたことも感謝でした。冒頭の聖句に「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とありますが、私にとって主の良くしてくださったこととは、私に対するそのような主のお取り扱いでした。勿論ただ手をこまねいてご利益を願うような信仰ではいけませんが、私にとって大切だったことは、全ての主権と栄光は私ではなく神にあること、全てが神の憐れみと恵みによって御手の中に守られているということでした。 
 この年も祈りの中心は愛する子供たちのことでした。今年長女は20歳、長男も18歳となり大学進学も決まりました。いつまでも子どもだと思っていた彼らも自分の意思がはっきりして来ましたが、神に従うこと、教会の集会を第一にすること、家族や教会の方々を愛すること等一つ一つ大切にすることに共に取り組み、誘惑や解らなくなることがある度に話し合いました。理解が出来なくても従いなさい、と言う時もありました。それは子どもたち自身が神のお取り扱いにきちんと自らを明け渡し、そこから逃げたり、軽んじたりしないことによって、やがて悔い改めと神の救いを頂く導きになることを信じるからです。
 何よりも私自身が神のお取り扱いを蔑ろにするのではなく、絶えずへりくだって、どのような中にあっても、自らを明け渡し、日々主をほめ讃え、感謝を献げる者でありたいと願っています。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)